愛してる、の襲撃




七月下旬、僕はじわりと滲んだ汗を拭うこともせずに、ただじっとスコープの中を覗いていた。柳さんも、兄さんも、ユダも、誰も動かない。このまま硬直状態が続けば、一番に死ぬのはユダだろう。彼は胸を押さえたまま、荒々しく肩を上下している。原因は分からないが、あのままでは彼は死んでしまうだろう。スコープ越しに診た限りでは、かなり危うい状態だ。
兄さんが、柳さんに何事か話している。恐らく、ユダの状況を見て焦っているのだろう。優しい兄さんは、彼を救おうとしている。
兄さんは必死に、柳さんに言葉を投げかける。だけど、彼女は顔色一つ変えない。そして、彼女はぽつりと兄さんに向かって言葉を放った。そしてその言葉に、兄さんは激しく首を横に振っている。
ダメだ、とその唇が動くのを見た。それじゃダメなんだ、と。
何がダメなのか、僕には分からない。僕は「青い夜の子」のことは知っていたものの、深い事情までは知らないからだ。
そして兄さんは、青い炎を見に纏いゆらりと揺らした。力づくでも、柳さんを押しのけるつもりらしい。相変わらずの猪突猛進ぶりだ。僕は小さく苦笑を漏らす。

「おや、余裕ですね、奥村先生。貴方はこの状況を黙って見ているおつもりですか?」
「ええ。僕はイレギュラーですから」

飄々と言ってのけると、フェレス卿は肩を竦めた。貴方はますます可愛くなくなりましたね、と皮肉を言われる。僕はそれを無視して、じっと二人を見つめた。
今の僕にできることは、兄さんを守ることだけ。たとえ柳さんが「青い夜の子」で優秀な祓魔師だとしても、かつて誰も成し得なかった虚無界の王、サタンを討った兄さんには敵わない。実力の差は明らかだ。たとえ兄さんがその力の5%を封じられていたとしても、柳さん相手には十分だろう。
ゆらり、と青い炎が揺れる。日が落ち始めた闇にその青はよく映えて、とても綺麗だ。畏怖の象徴であり、恐怖の対象である青い炎だけど、僕はその炎を怖いと思ったことは一度もない。その炎は紛れもなく、兄さんのものだからだ。
僕がぼんやりとその炎を見つめていると、今度は柳さんの様子がおかしいことに気づいた。しきりに頭を押さえて、顔をしかめている。
何だ……?僕はじっと柳さんを見つめる。兄さんやレヴィアタンたちも柳さんの様子がおかしいことに、怪訝そうな顔をしている。だが、その中でハッと兄さんが何かに気づいたような顔をした。そして、慌てたようにレヴィアタンとアスタロトに何か指示を出していた。指示を受けた二人も表情を強張らせたあと、すぐに頷く。
その間も柳さんは苦しげな表情をしていて、しきりに頭を抑えている。まるで、何かと戦っているかのように。
何が起きている、とトリガーにかけた指に力を込めると、隣にいたフェレス卿が、おっという声を上げた。

「おやおや、これは……。少々ややこしい展開になってきましたねぇ」
「何が起きているのか、分かるのですか?」
「えぇ、まぁ。ですが、物質界でコレが起きるのは、珍しいといえば珍しいですね」
「?」

どういう意味です、と問いかけようとした、その時。
ァァァア!という絶叫のような声が、微かに耳に届いた。柳さんか、と思ったが、彼女は頭を抱えたまま膝をついている。ということは、この声は……。

『奥村雪男!』

スコープの照準を向けようとした瞬間、背後で声が聞こえた。アスタロトだ。彼はいつのまにこちらの建物に移動したのか、慌てたようにこちらに走ってきた。隣のフェレス卿に一礼をすると、アスタロトは僕の隣に座り込んだ。

『説明している暇はないから手短に話す。このまま銃を構えて、いつでも撃てるようにしておいてくれ。若君からの合図があるまで、決して撃つな』
「……分かった」

僕が一つ頷くと、アスタロトは少し肩の力を抜いた。そのまま立ち上がって、じっと前方を睨みつけている。そのまま動く気配のないアスタロトに、僕は銃を構えたまま問いかける。

「……戻らないのか?」
『若君の命令だ』

少し悔しそうに唇を噛んで、アスタロトは淡々とそう言った。

『俺は八候王としてはまだ一番若い。だから力の制御も一番未熟だ。そんな俺があの場にいては、若君の足手まといになるだけだ』
「……なるほど。それで兄さんを置いてこっちに来たのか」
『それに、若君からお前を守れとの仰せだ。俺は別にお前がどうなろうが知ったことではないが、若君が悲しむからな。まぁそれに、俺がお前の護衛を任されたのは、別の意味もあるし』
「?」
『兄上が……上位王子であるレヴィアタンがいるからな』

アスタロトは小さく誇らしげに笑う。そして、両手を前方に掲げると、そっと目を閉じた。

『……来たれに集いしの僕……集いてちぎりに基づき力を示せ……』

アスタロトは詠う。それに呼応するように、眼前に魔法陣が現れた。その形を見て、目を見開く。これまで僕が見てきた中でも特に大きく、複雑な形をしたその陣は、召喚のためのものだ。
アスタロトは、何かを呼ぼうとしている。それも、かなりの力を持つ悪魔を。

「「腐の王」!一体、何をするつもりだ!?正十字学園、しかも騎士団日本支部に上級悪魔を呼び出そうとするなんて……!一歩間違えれば……!」

兄さんの身が、危うくなる。
そう言いかけて、横から制止の手が掛かった。フェレス卿だ。彼は悪戯が成功したような瞳で、しぃ、と人差し指を立てた。

「大丈夫ですよ、奥村先生。私が特殊な結界を張っています。あの建物からこの建物までの周辺全て、私の結界内です。この中で何が起ころうとも、騎士団に知られることはありません」
「そんなことが可能なのですか!?」
「まぁ、私に掛かればこんなもの些細なことにしか過ぎませんよ♪」
「……」

何でもないことのように言ってのけるフェレス卿に、改めて軽い戦慄が走る。さすが、上級悪魔たちから兄と呼ばれるだけのことはある。奇天烈なのは服装だけでなく、力も同じなのだろう。
何となく複雑な心境になっていると、アスタロトの唄はそのまま続き、そして……。

『……召喚………栄光の手、ネビロス!』

高らかにその名を呼ぶ。その瞬間。
カッと魔法陣が輝いたかと思うと、その姿が目の前に現れた。
「腐の王」アスタロトの眷属にして、その眷属たちを治める役割を担っているのが、栄光の手ネビロスだ。ネビロスは灰色の髪をした、姿は人間だが顔は狼という出でたちだった。まるで、エジプトの神、アヌビスのようだ。

『お久しぶりでございます、アスタロト様。用件は………、なるほど、理解いたしました』

ネビロスはアスタロトの前に平伏すると、ちらりと背後を見やって納得の表情を浮かべた。

『あぁ、よろしく頼む』

アスタロトが頷くと、ネビロスはそのまま兄さんたちのいる方へと飛んでいってしまった。召喚されてから5秒にも満たないその順応力に、相手は悪魔だが感心してしまう。
ネビロスが兄さんたちの元へとたどり着くと、兄さんはネビロスにペテロと苦しんでいる柳さんの二人を預けた。ネビロスは頷くと二人を抱えて、少し距離を置いた。同時に兄さんは刀を構えて、その青い炎を更に燃え上がらせていた。

赤い夕暮れに、青い炎が上がる。

『さぁ、来るぞ………!』

アスタロトが唸るようにそういった、その、瞬間。


嗚呼嗚呼嗚呼アアアアアアアアアアアアア!


耳が潰れそうなほどの、絶叫。
超音波のようなその声が、ぶるぶると空気を震わせる。
そして……、何かが破裂したような爆音が響いて。


ソイツが、姿を現した。

赤い瞳をギラリと光らせたそのイキモノは、空に向かって咆哮を上げる。
僕はその姿を見て、絶句する。
それは、ソイツは……。

「………バハムート………!」

「地の王」アマイモンの眷属であり、ベヒモスと同等の力を持つとされる、上級悪魔。
伝説の竜のような姿をした悪魔が、目の前に佇んでいた。

「何故バハムートがここに!?」
『……タイムオーバーだ』
「え……?」

咆哮を上げるバハムートを見て、苦々しくアスタロトが呟く。

『俺たち「青い夜の子」は、実験の過程で生まれたに過ぎない危うい存在だ。生まれてすぐに大半の子供たちが死んだのが良い例だ。悪魔の血を濃く告げば告ぐほど、人間の血との拒絶反応が強くなってしまう。だから……「青い夜の子」たちは短命だ。それに、上手く生き残れたとしても、まだ問題が残っている。それが……完全なる悪魔化』
「……。それはつまり……人間と悪魔のハーフではなく、悪魔になってしまうということか?」
『そうだ。だがそれは、所詮歪でしかない。お前たちも分かるだろう?お前たち祓魔師が悪魔になってしまった場合の、末路を』
「……―――」

かつて対峙した一人の男のことを思い出す。僕と似たような境遇に抗おうとした、一人の男を。彼の末路を思い出して、顔をしかめる。

『「青い夜の子」は、自身に流れる悪魔の血が覚醒してしまうと、もう元には戻れない。自我を失ったただの破壊を繰り返すだけの存在になってしまう。……あぁなってしまっては、殺す他に道はない』
「だけど、それなら君やレヴィアタンはどうなるんだ?君たちだって「青い夜の子」だったんだろう?」
『俺たちは、凶暴化してしまう前に、若君によって儀式を受けた。儀式により完全な悪魔になることには変わりないが、凶暴化することはない。……若君は凶暴化してしまうのを止めるために、他の「青い夜の子」たちを説得しようとしていた。だが……アイツは……ユダは間に合わなかったようだな……』

少し悲しげなアスタロトの声が響く。僕はスコープ越しに、兄さんの姿をじっと見つめ続けた。兄さんはただ真っ直ぐにユダを、バハムートを見上げている。

その手に、愛刀を握り締めて。
青い瞳を熾烈に輝かせて、ただ真っ直ぐに。

僕はその瞳に違和感を覚えた。いつもの兄さんの、強い決意を宿した瞳のはずなのに。

……―――兄さん?

疑問に思った瞬間、兄さんがバハムートへと駆け出していた。






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