愛してる、の慟哭




七月下旬、俺は目の前に居るその存在に、ただじっと視線を向けていた。
かつて、俺と対峙した存在。「青い夜の子」であり、彼らにとって兄と呼べる存在だった、「第二の子」ユダ。しかし彼の面影はどこにもなく、ただ、空に向かって咆哮を繰り返す獣がそこにはいた。

……―――間に合わなかった。

ギリ、と奥歯を噛み締める。
「青い夜の子」たちは常に爆弾を抱えている。悪魔の血、人間の血、そして、その二つによって引き起こされる、最悪の結末。
破壊と殺戮を繰り返す、理性なき獣へ。そこには、彼らにとって大事だったはずのものでさえ、その心から消滅してしまっている。
何度も、試みた。「青い夜の子」を救う方法を、探していた。そしてようやく、説得さえできれば、彼らが納得してくれさえすれば、儀式を受けずとも人間になれる方法を、やっと見つけ出したのに。
なのに、結局俺はまた、間に合わなかった。

ちらり、と背後を見やる。アトの召喚によって呼び出されたネビロスが、呆然とこちらを見やるペテロと苦しげに呻いている柳を抱えている。
おそらく、ペテロは知らなかったのだろう。「青い夜の子」が抱える、爆弾を。反乱軍はそのことを教えていなかっただろうし、「あの時」ペテロは居なかったから。
「あの時」あの場所に居たのは、俺とレン、アト、そして、ミカだけだったから。だから、ミカは、柳は知っていたはずだった。それなのに、なぜ邪魔をしたのか。
柳は頭を抱えている。おそらく、中にいるミカが覚醒したユダと共鳴しているのだろう。このままでは、ユダにつられてミカまで暴走しかねない。その前に、カタをつけなければ。

「……―――レヴィアタン」
『はい、若君』

俺はかつてユダだったソイツを、バハムートを睨みながら、レンの名を呼ぶ。彼は心得たとばかりに、返事を返した。その声から感じ取れる決意が、俺の背中を押す。
レンの心境を思うと、こんなことを頼むのは間違っているのだと、分かっている。だけど、俺にとって何より優先すべきなのは、この世界の、ここにいる大切な人たちを、守ることだけ。

だから俺はあの日刀を取った。
守りたい人たちを、守れるように。
だからあの日俺は青い炎を使った。
大事な人たちを、この力で守れるように。

………―――ジジイ。

ぽつり、と祈るように呟く。記憶にあるあの人は、いつだって俺に暖かかった。
だからあの熱を、あの優しい温度を、今度は俺が、誰かに返す番だから。

だから俺は、戦う道を選んだ。

「お前の力を解放する。……それで、アイツを止めろ」
『命のままに。……―――我が親愛なる、王』

レンを振り返ると、彼は膝をついてこちらに頭を垂れていた。決して顔は上げない。俺とレンの間にあるのは、今は主従の関係だけ。
俺が命じ、レンが動く。ただ、それだけ。
俺はすっと目を閉じて、愛刀を構える。ゆらり、と青い炎が刀身に走って、青い燐光を纏う。そのままその刀身を、足元へと突き立てる。その瞬間、俺とレンを中心に、青い陣が発動する。

『……―――、解放』

俺がその呪を口にした、その瞬間。
カッ、と陣が青い光を放つ。そして、爆音とともに、その姿が現れる。
レンの、原初と呼ばれる姿。四人の上位王子であり、最高位の悪魔の一人。

「地の王」の眷属にして地を治めていたというバハムートやベヒモスの対と呼ばれた、海の王。

「蛟の王」レヴィアタンの本来の姿が、そこにはあった。

綺麗な水色の瞳をした蛟は、俺のそばに顔を寄せると、そっとその瞳を細めた。俺はその顔にそっと額を寄せて、目を閉じる。

「………頼む」

ぽつりと呟けば、心得たとばかりにレヴィアタンが飛翔する。同時に、バハムートもレヴィアタンへと向かって翼を広げる。
二つの竜が、高い空で絡み合う。俺はそれを見届けた後、ネビロスの元へと向かった。
ネビロスは抱えた柳を見、俺を見て淡々と口を開く。

『若君。……この者は……魂が混濁している。かなり危うい状態です』
「そうか……。お前の力で、何とかならないか」
『……できないことはないです。しかし……我では力が足りないのです』

「腐の王」アスタロトの眷属であり、その眷属を統べるこのネビロスは、優秀なネクロマンサーだ。魂については「氣の王」アザゼルの次に詳しい。その彼が難しいというのだから、相当に悪いのだろう。だが、ここで諦めるわけにはいかない。

「……俺の血があれば、足りるか」
『!そのような恐れ多いことを……!?正気ですか、若君!』
「あぁ、俺は十分正気だし、本気だよ。もうこれしか、道はねぇんだ。……やってくれるな?ネビロス」
『………若君。……了承、いたしました』

ネビロスは少し顔をしかめたが、すぐに頷いた。さっそく準備に取り掛かるネビロスを横目に、俺は二つの竜へと視線を向ける。

……―――レン、アト。お前の兄弟はもう誰も失わせない。絶対に、俺が助けてやる。

そう固い決意を胸に秘めていると、カチリ、と金属のような音が聞こえた。
何、と思った、次の瞬間。

ぱぁん!と乾いた銃声が響いて、そして……。

「………ッ」
『若、君………ッ!』

じわり、と肩に走る、熱。俺は肩を抑えて、顔を上げた。そこには同じように撃たれたのだろうネビロスと、こちらに向けた二つの銃口。
そして、苦しそうに頭を抑えながらも、気丈に立っている、柳の姿があった。

「や、柳……!お前……!」
「よけいな……ことを、……しないでください」

柳は途切れ途切れにそう言いながら、銃の安全装置を外した。トリガーに掛けた指が訴える。何かをすればすぐに撃つ、と。

「柳!止めろ!このままじゃお前は、ユダみたいになってしまうんだ!その前に、お前とミカの魂を引き離す。そうすれば、お前は悪魔化せずに済むんだ……!」
「………」
「お前は、ジジイに育てられたんだろ?だったら、今度は俺はお前を守る!ジジイが守りたかったものを、俺も守りたいんだ!」
「勝手なことを言わないで!!」

銃を下ろせ、と言いかけた言葉は、柳の叫びによって遮られた。柳は荒々しく肩を上下させながらも、キッとこちらを睨みつけていた。その鋭い刃のような瞳に、その覚えのある光に、ハッと顔を強張らせる。
それはかつて、レンやアトに向けられた瞳と同じだったからだ。
憎いだとか、そんなものではない、心の奥底から這い上がるような、殺意。

「貴方に……何が分かるって言うの……、藤本神父のことも雪男さんのことも何も知らないで、安穏と暮らして……。悪魔として覚醒してからも、雪男さんがどんな思いで貴方を守ってきたと思っているの……!それなのに貴方は雪男さんを置いて、虚無界に行って……!帰ってきたかと思えば、配下の悪魔たちを引き連れて。まるで貴方を守ってきた雪男さんのことを蔑ろにするみたいにして……!どれだけ、雪男さんを振り回せば気がすむの……!?それなのに私を守る?笑わせないで……!一番身近な兄弟のことも分からない貴方に……そんなこと言われる筋合いはないわ……!」
「………―――柳、お前………」
「私は……―――ずっと貴方が憎かった」

柳はその瞳に涙を浮かべて、ぽつりとそう零した。

「居場所のなかった私に……居場所をくれた藤本神父。……初めて優しく接してくれた……共に戦ってくれた雪男さん。二人はとても優しくしてくれたけれど、二人とも私のことなんて見てなかった。二人とも、貴方しか見ていなかった……!それが憎くてたまらなかった……!ッ………やっと、貴方が虚無界に行って……雪男さんは貴方から解放されたと思ったのに………、どうして……ッ」
「柳、俺は……!」
「私は、貴方よりもずっと、雪男さんのことを知っていた。小さなころからずっと、一緒に戦ってきた。……私は………ッ雪男さんのことを、誰よりも愛していたのに……!」
「ッ!」

息が、止まる。
同時に、もうこれ以上聞きたくない。そう思った。

柳の生い立ちや、ジジイや雪男との関係。そんなことは分からないし、知らなかった。だけどきっと、柳にとってこの二人は大事な存在で、そして……雪男は柳にとって、とても、とても大事な存在なのだということは、痛いほど分かった。

だけど。
だけど………!

「雪男さんを返して!雪男さんは、貴方のものじゃないわ……!」

とっさに、耳をふさごうとした、その、時。

パァン!と乾いた銃声が、再び聞こえて。

「………ぁ……?」

不思議そうな柳の声が聞こえる。そしてその右手は、真っ赤に染まっていた。
カシャン、と柳の手から銃が落ちる。柳は慌てて左手の銃を構えたが、それも再び聞こえた銃声と同時に、左手からも鮮血が溢れ出す。

誰が銃を撃ったのか。そんなことは明白で。

「………ッ」

柳の顔が、くしゃりと歪む。彼女の視線の向こうには、遥か遠くにいる、彼女の愛しい人がいるはずで。
そしてその人が……―――彼女を撃った。

「ゆきお………さん………」

どうして、という彼女の言葉は、がくりと膝を付いた彼女の慟哭と共にかき消された。

彼女の心の悲鳴のようなその泣き声に、俺はそっと瞳を伏せる。本当ならこのまま泣かせておいてあげたいのだけれど、状況がそれを許さない。俺はネビロスへと目配せをする。すると彼は一つ頷くと、そっと柳の背後に回り、彼女の首元に手刀を叩き込む。
がくりと崩れた柳を支えつつ、その濡れた瞼をぬぐってやろうとして、手を止める。

この役目は、俺じゃない。

そっと彼女を横たえて、ネビロスを見る。彼も負傷してはいるが、消滅までには至っていない。俺の傷も、少しずつ回復してきているようだ。

「ネビロス。彼女を、頼む。撃たれたときの俺の血を使えば、十分だろ」
『……ですが若君……。この者は貴方の命を……』
「いいんだ。彼女には、俺を撃つ権利があった。……後は頼む」
『………承知、いたしました』

俺にはまだ、やることがある。そう言えば、ネビロスは納得したのだろう、柳の方へと意識を向けた。
これで彼女は大丈夫だろう。俺はそれを見届けて、空を仰ぐ。ちょうどその時、レヴィアタンがバハムートの首筋に噛み付き、バハムートが悲鳴を上げてこちらへと落下してくるのが見えた。

落ちてくる、巨体。このままいけば、直撃してしまう。
カチリ、と鯉口を切る。じり、と両足に力を込め、そして……。

「………ッ、行け!」

しゃああ、ん、という刀が走る音が響いて、青い一閃が走る。その青い光の残影はそのまま形を成し、刃のように飛翔する。そしてその刃は、バハムートの右翼を跳ね飛ばした。

ギああああ!とバハムートが悲鳴を上げる。同時にレヴィアタンが横からバハムートを突き飛ばし、バハムートは林の中へと激突した。

「………今、か」

翼を片方失くしたバハムートは激しい咆哮を上げている。再生機能がうまく働かないのだろう。当然だ、俺の青い炎で斬られたのだから。
だが、それも時間の問題だ。少し時間を置けば、翼はまた生えてくるだろう。
俺はバハムートを見やりつつ、刀を持つ手に力を込める。今が、チャンスだ。

「レヴィアタン!」

空を仰ぎつつその名を呼べば、彼は俺の傍へとやって来た。スッと頭を下げるレヴィアタンの頭をなでつつ、その青い瞳を覗き込む。

「レヴィアタン。俺をアイツのところまで、連れていってくれ。……できるな?」

俺が問えば、レヴィアタンは一つ咆哮を上げる。当然、とばかりに。
俺はそれに満足しつつ、ニッと笑った。

「よし!俺を連れてけ!」

さぁ、決着をつけようじゃないか。



長い長い、青い夜の、決着を。






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