愛してる、の意義




七月、何故か上級悪魔がこの物質界、ひいては正十字学園に現れたその後、すぐに僕と兄さんはフェレス卿のもとを訪れた。というのも、ここに上位級の悪魔がいるということは、フェレス卿が手引きしたとしか思えず、その理由を聞きに来たのだ。
突然尋ねてきた僕たちに、フェレス卿はニヤニヤと何もかも分かっているかのような顔で笑って出迎えて、やはりフェレス卿の仕業か、と僕は頭を抱えた。
何の用でしょう?としらじらしく首を傾げるフェレス卿に、兄さんはとぼけんな!と食ってかかって。

「お前、どういうつもりなんだよ?レンだけじゃなく、ベルまで呼び出すなんて」
「どういうつもりもなにも。彼らは貴方を心配してここにやって来たのですよ。私が強制したわけではありません」
「でも、それならそうと言ってくれねぇと、色々びっくりするだろうが!」
「まぁまぁ、いいじゃありませんか」

フェレス卿は飄々とそう言って、レヴィアタンとベルゼブブを見た。彼らはその視線を受けて、一つフェレス卿に頭を下げる。

『お久しぶりです、兄上』
『お元気でしたか、兄さま!』
「あぁ、久しぶりだな、レヴィアタン、ベルゼブブ。我が弟たち」
「……」

フェレス卿はそう言って、楽しげに笑った。そして、おや?という顔をして。

「アスタロトとアリトンの姿が見えないですね。どうかしたんですか?」
「え?『腐の王』、アスタロトと『水の王』アリトンも物質界に来ているんですか!?」

上級悪魔は暇なのか!?と言いたくなる。
僕が絶句していると、当たり前だろ!とベルゼブブが僕を睨みつけるように見上げてきて。

『大事な若を単身で、しかも正十字学園の中枢に置いておくなど言語道断。ボクらは若をお守りするために、この物質界に来たんだ』
「あぁ、そう。でも兄さんは監視さえついていれば、この正十字学園での自由を許されている。つまり正十字騎士団からのモーションは無いに等しい。つまり、危険があるとするなら悪魔側からの攻撃だ。でも、ここにはフェレス卿の結界があるし、それに……兄さんには祓魔師ぼくが付いている。悪魔きみは必要ないんじゃないかな?」

にっこり、と笑いながらそう言い放つと、ざわりとベルゼブブの空気が変わった。キロリ、と黄金色の瞳を見開いて。

『言わせておけばただの祓魔師風情が偉そうに。お前に若が守れるもんか!』
「どうかな?ここで試してみてもいいけど?」

腰に下げている愛銃に手をかけると、ベルゼブブがカッと目を見開いた。ブブ、と空気を震わす羽音が響き始めて、僕はゆっくりと腰を落とす。
見た目は子供だが、中身は上級中の上級悪魔だ。油断していたらこっちがやられる。そう思いつつベルゼブブを睨みつけていると。

『はい、そこまでにしなさい!』

ばしゃん!と頭上から大量の水が降ってきて、僕とベルゼブブを濡らした。
な!?と驚いて頭上を見上げると、長い水色の髪の綺麗な女性が一人、僕たちを見下ろしていた。

『全く!ベルゼブブも若ちゃんの弟君も、いい加減に落ち着きなさいよ。若ちゃん、困ってるでしょ?』

彼女の言葉に僕はハッと兄さんを見た。兄さんはきゅっと眉根を寄せて、僕たちを見ていた。困った、というより、どうしたらいいのか分からないような、そんな顔。
しまった、と僕は内心で反省する。ベルゼブブも兄さんの様子に気づいたのか、しょぼん、と落ち込んでいた。

『あのまま二人が喧嘩し始めちゃったら、ここは大惨事になっちゃうでしょうが。そしたら一番困るのは若ちゃんなのよ?そこのところ、ちゃんと理解してあげなきゃダメじゃないの』
「……いや、アリトン、ここは私の部屋なのだが……」

フェレス卿が呆然と呟くと、女性、『水の王』アリトンは綺麗な笑みを浮かべて、特に悪びれることもなく空中で一礼をした。

『あら、お久しぶりです。兄様』

華麗に笑う彼女だが、周囲一帯は水浸しで、高級そうな絨毯が台無しになっていた。フェレス卿はそれを見て半泣きになりながら、久しぶりだな、とうな垂れていた。



『水の王』アリトンの出現によって、僕とベルゼブブの対立は避けられて。アリトンは落ち着いた僕たちを満足そうに見やった後、兄さんの傍まで浮遊してゆっくりと降下した。まるで重力を感じさせないその動きに、僕は軽く目を見張る。
地に足を付けた彼女は兄さんを見下ろして、にっこりと微笑む。

『「水の王」アリトン、参上致しました、我が君』
「おぉ、お前とも随分と久しぶりだよな、アン」
『はい、ベルゼブブと一緒に西の遠征に出て行ってそれきりでしたので……。ふふ、でも元気そうで何よりだわ、若ちゃん』

そう言って、アリトンはぎゅっと兄さんを抱きしめた。あ、と思う間もない早業で、僕は銃に手をやる暇もなかった。
僕が呆然と見つめる中、アリトンは少し困ったような顔をして。

『本当に、心配したのよ?ベルゼブブと遠征から帰ったら、若ちゃんは物質界に行ってるって聞いて。……いつか帰っちゃうんだって分かってても、寂しかったんだから』
「……あぁ、ごめんな」

兄さんはそう言って、兄さんよりも少し背の高いアリトンの背中に手をやってぎゅっと抱きしめ返した。そして数秒もしないうちにアリトンから離れて、レヴィアタン、ベルゼブブを見渡した後、スッと目を細めて。

「他の奴らもごめんな。心配かけて。でも、俺は大丈夫だから。確かに色々と大変だけどさ。俺、物質界に戻ってきて後悔はしてないんだ。……結局、俺はこっちで生まれて育ったわけだから」
『若君……』
「だから、俺の護衛はいらない。お前たちは虚無界に戻るんだ」
『で、でも……ッ!』

なお言い募ろうとしたベルゼブブを、隣にいたレヴィアタンが止めた。何で!と不満そうなベルゼブブに、レヴィアタンは首を横に振って。

『我らが若君の命だ、従う他にないだろう。……それが若君のお望みだ』
『……、うん』

しぶしぶ、と言った様子で頷いたベルゼブブに、レヴィアタンは、よし、と一つ頷いた。そして僕を見やって。

『若君の弟。若君にもしものことがあったら、真っ先に貴様を殺しに来る。……覚悟しておくんだな』
「……貴方に言われるまでもない」

当然のことだ、と僕が頷くと、レヴィアタンはフッと小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。するとそれを見ていた兄さんが、少し不満そうに唇を尖らせて。

「おいおい、俺は別に守られるほど弱くねぇって!」
「何言ってるの兄さん。兄さんは確かに強いけど、今は中級まで力を落としているんだよ?そんなの狙ってくださいって言ってるようなもんなんだから」
『その通りです。まだ反乱軍の残党がいるかもしれないのですよ?用心に越したことはありません』
「お、お前ら落ち着けって」

キッ、と僕とレヴィアタンから睨まれて、兄さんはタジタジな様子で顔を引きつらせた。そんな僕たちを見ていたフェレス卿は、絨毯の衝撃から立ち直ったのか、楽しげに手を叩いて。

「いやぁ、これでひとまずは落ち着きましたね。当分は奥村先生が奥村君の護衛、ということで。私もヴァチカン本部にそう報告しておきましょう」
「……フェレス卿、まさかこれが目当てで……?」

僕はその言葉にピンと来て、フェレス卿を見た。フェレス卿はただ笑みを深めるだけで何も言わなかったけれど、きっと僕の考えは的を射ているはずだ。
見たところ、ここにいる悪魔たちは兄さんの護衛や補佐、つまり腹心の部下に当たる悪魔たちだろう。そして何より、兄さんに強い忠誠心を持つ悪魔たちでもある。
そんな彼らがたとえ『賭け』に負けたとはいえ、兄さんが物質界に戻ることを快く思っているはずがない。だからこそ、彼らをこの物質界に呼んだのだろう。兄さんがこの場所にいることを、本当の意味で納得刺せる為に。
してやられた。僕は何となく、そんな気分になった。
僕が苦々しく思っていると、フェレス卿は、とにかく、と話を進めて。

「これで話は済みましたね。本来なら、私の結界が利いているこの場所に、上級クラスの悪魔を、しかも四体も存在させるのは、あまり好ましくありません。今日のところは一旦虚無界に戻るといいでしょう」
『えぇ?もう帰らないといけないのですか?』

ベルゼブブが少し不満げな声を漏らす。フェレス卿は苦笑しつつ、ベルゼブブの頭を撫でて。

「まぁ、これっきりというのは可哀想なので、一人ずつなら物質界に来ることを許可しましょう。それでいいですね?ベルゼブブ」
『はい、兄さま。ありがとうございます!』

やった!と喜びながら、ベルゼブブは兄さんに飛びついた。兄さんも良かったな!と一緒に喜んでいて、僕はかなり面白くない。
ムッとしているといつの間に隣に来たのか、アリトンがクスリと笑みを零して。

『ほんと、弟君は若ちゃんのことが大事なのね』
「……当たり前です」
『ふふ、そうね、双子だもの。それは当然よね。でも、さっきレヴィアタンが言ったことはホントウよ。もし、若ちゃんにもしものことがあれば、レヴィアタンだけじゃない、私も貴方を殺しにくるから』

そのつもりでいてね、と綺麗に笑ったその人は、顔は笑っているのに目は全然笑っていなくて。やっぱり悪魔だなと思いつつ、分かっていますよ、と僕はさらりと返した。
何を今更。僕は神父さんが死んでしまう前からずっと、兄さんと一緒に居るために、兄さんを守る為に生きてきた。これからだって、それは絶対に変わらない。
……何があっても、今度こそ兄さんを誰からも守りきってみせる。
僕がぐっと手のひらを握り締めると、ベルゼブブとじゃれあっていた兄さんが、ふ、と顔をこちらに向けた。そして僕と目が合うと、少し困ったような、それでいて照れたような笑顔を向けて。
どくん、と心臓が大きく高鳴る音を、僕は兄さんの笑顔を見つめながら、呆然と聞いていた。



「さて、そろそろ本当に帰っていただきますよ、皆さん」

しばらく兄さんと話した悪魔たちは、フェレス卿の言葉を受けて、名残惜しそうな顔をした。だけど誰も文句は言わずに、一つだけ頷いた。そして、部屋の扉の前まで行くと、一度だけ振り返って。

『またお会いしましょう、若君』
『絶対、また物質界に来ますから!』
『体に気をつけて、無理をしちゃダメだからね?』

各々が兄さんに一言告げる。すると兄さんは、おう!あっちの奴らにもよろしく言っておいてくれよ!と元気に返した。
三人はそれぞれ笑顔で頷くと、扉を開けて外へと出て行った。おそらく、あの扉の向こうは虚無界と繋がっているのだろう。虚無界の門を呼び出すことなくこんな芸当ができるのは、フェレス卿だけ。本当に、この人だけは敵に回したくはないな、と心底思う。
そんなことを考えていると、フェレス卿は、さて、と僕と兄さんを見て。

「……兄弟たちが帰ったことですし、貴方たちも戻った方がいいでしょう。奥村先生の方は授業もありますし、奥村君はシュラと一緒に任務にあたって頂きますからね」
「シュラさんと、ですか」
「えぇ、しばらくの間は、任務は彼女と行った方がいいと思いまして。その方が、貴方も安心できるでしょう?奥村先生」
「えぇ……まぁ」

僕は少し不安に思いながらも、頷いた。
確かに、彼女なら安心できる。祓魔師としては上一級の資格を持つ彼女なら、例え兄さんを狙う悪魔が現れたとしても対応できるだろうし、兄さんの師でもある。その部分に関してだけ・・を言えば、彼女は適任なのだが。

「おや、不服ですか?」
「いえ、そんなことはありませんよ」

ただ、昔から彼女は何かと兄さんにいらぬ知識を教えたり、やる気があるのかないのか分からない態度を取ることがあるから、その部分はひどく心配だ。
まだ兄さんが焔の力を制御するための修行をしていた頃。どうしてそういうことになったのか分からないけれど、兄さんの童貞卒業の手伝いをしてやるとかで、そういう・・・・店に兄さんを連れて行きそうになっていたことがあった。勿論、僕が事前に気づいて全力で阻止したけれど。
そういった前歴があるから、僕は彼女を信頼はしているけど信用はしていない。
僕はそんなことはないと言いつつも、できるだけ兄さんの任務は僕と組んでくれるよう取り計らってもらおう、と考えていると。

「き、きゃああああああ!」

甲高い女の子の悲鳴が聞こえて、僕がハッと顔を上げると、兄さんは何故かフェレス卿の背後にある外窓の方へ走っていて。

「に、兄さん!?」

僕が驚きの声を上げた次の瞬間、兄さんは外窓を開け放って窓枠に足を掛けると、そのまま外へと飛び出して行った。

「ちょ、兄さん!ここは!」

五階だよ!と止める間もなく、兄さんの体が下へと落下する。僕は慌てて窓へと駆け寄って、下を見下ろす。兄さんは五階から落下したにも関わらず、綺麗に衝撃を殺して着地した後、そのままどこかへ走って行ってしまった。向かった方角を考えると、正十字学園の中庭辺りを目指しているのかもしれない。
僕は兄さんが走り去る方角を確認して、フェレス卿の部屋を出て行こうとした。だけどその前に、フェレス卿から、奥村先生、と呼び止められて。僕は、急いでいるのに、と内心で舌打ちをしたけれど、表情に出すことはなく立ち止まった。振り返ると、フェレス卿はほんの少しだけ真剣な顔をして。

「何ですか、フェレス卿」
「お急ぎでしょうから、手短に話します。今、奥村君の力、つまりサタンの焔が降魔剣によって封じられているのはご存知でしょう?そしてそれによって、中級まで力を落としている、ということも」
「えぇ。……それが、何か?」
「ですが、降魔剣があるとはいえ、焔の力を中級まで落とすことは実質不可能なんですよ。彼は悪魔の王ですからね、強大な力を秘めているのは致し方ありませんが、この物質界においてはその力は負を齎すものでしかない」
「……―――」
「だから、彼がこの物質界に存在する為には、あることが必要だった。それは、『力の限定』」
「『力の限定』……?」
「そうです。制御装置リミッター、とでも言えばいいんでしょうか。簡単に言えば、降魔剣に封じた力とはまた別に、もう一つ彼の力を封じるモノが必要だった、ということです。今の彼は、100%ある力のうち、50%を降魔剣に。そして30%をその『力の限定』によって封じられている」
「な……、じゃあ、今の兄さんは20%の力しか出せないってことですか!?」
「いや、その他にも色々と封じられている力がありますので、実質、彼が自由に使える力は5%くらいしかないでしょうね」
「……ッ」

僕はその言葉に、レヴィアタンの言葉を思い出した。

『俺は、悔しいのです、若君。貴方がどんな想いで、この物質界に来たのか。それを全く知らずに、若君を独占しようとする。それが、俺にとっては我慢ならないのです』

『分かっています。若君がご自分の意思で、物質界にいることを選んだことも。だから今の状態を甘んじて受けていらっしゃることも、全て。分かっていても、俺は貴方を独占する存在を許せない』

なるほど、と思う。
確かに、兄さんの力を最小までに封じられてしまう現実を、あの腹心たちが黙っていられるはずもないだろう、と。
そして同時に、胸が痛んだ。兄さんは自分の力をそこまで封じなければ、この世界では生きていけない。その現実を、兄さんはたった一人で抱え込んで、なんでもないように笑っていたのだろうか。
たった一人の家族である、僕にさえ話さずに。
僕はぎゅっと手のひらを握り締める。険しい顔をする僕に、フェレス卿はただ淡々と。

「ですが、その『力の限定』は、『許可』があれば外すことができます。そして、その『許可』を出すのは、私です」
「!」
「滅多なことでは『許可』は出せませんが、命に関わる場合や任務の内容、その他止む終えない状況になった場合、『許可』をすることができます。……良かったですね、私が権力者で」
「……えぇ、そうですね」

僕はその時、背筋がぞっとした。
そうだ。もし、フェレス卿以外の人間が、正十字騎士団の誰かが兄さんの『力の限定』を操作する権限を持ってしまったら。
きっと、どんなに危ない任務だろうが、どんなに命の危険に晒されようが、『許可』が下りる事はない。悪魔の王である兄さんを、正十字騎士団はあまり歓迎していないのが現状だ。だから、もし兄さんが死んでしまったとしても、眼の上のたんこぶが消えたくらいにしか思わない。
僕は兄さんの置かれている立場を思い知って、唇を噛み締めた。

だけど、それでも。

それでも、もう、僕は兄さんと離れてしまうのは、嫌だ、と思う。
かつて、離れ離れになった僕と兄さんがこの正十字学園で再会した、あの春の日。桜が舞う中で抱きしめた兄さんのぬくもりに、誓った想い。

……―――これからは、僕がずっと傍にいて、貴方を守る。

その誓いは一度は果たせなかったけれど、今度は必ず守り通すと誓ったから。
この想いが、たとえ僕の自己満足でしかないのだとしても。それでも構わない。兄さんの傍にいることが、僕にとっての何よりの幸せだから。

兄さん。

僕が内心でポツリと呟くと、フェレス卿はそんな僕を見透かしたように苦笑して。

「とにかく、奥村君の現状は厳しいものではありますが、ほとんどの上級悪魔は彼に忠誠を誓っていますし、正十字騎士団も今は大人しくしているでしょう。そう、難しく考える必要はありませんよ。……さ、話は終わりです。早く奥村君の後を追いかけてあげてください」
「はい……―――、失礼します」

僕は軽く頭を下げて、フェレス卿の部屋を後にする。とにかく、考えるのは後だ。今は飛び出して行った兄さんを追いかけることに専念しよう。

そう思いながら、僕は腰に下げた愛銃を、するりと撫でた。






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