愛してる、の反対




七月、俺は学園内を走っていた。真っ直ぐに目指す先は、学園の中庭。先ほど聞こえた悲鳴は、そこから聞こえて来たような気がしたからだ。それに、妙な胸騒ぎもするし。

「……気のせいだといいんだけどな」

俺は呟きながら、動かしている足の速度を速めた。そして荒い息を吐きながら到着した中庭は……。

「な、なんじゃこりゃ!?」

ジ○リに登場していた、あの腐海の森になっていた。
辺り一面に真っ白な綿毛が飛び交い、巨大なキノコがモクモクと生えている。俺はくしゃみをしそうになりながらも、ゆっくりと奥へと進む。歩く度に胞子が舞い上がって、俺の足は自然とゆっくりになる。

「……これは……」

歩きながら周囲を見渡して、俺は嫌な予感が的中したこと実感した。ヤバイな、と忙しく周囲を見渡すと、中庭の中心、噴水のあったその場所に人影を見つけた。どうやら、この学園の女子生徒のようで、俺は慌ててその生徒に走り寄った。

「だ、大丈夫か!?」

俺が声をかけると、ビクン!と肩を震わせて振り返った女の子は、俺を見とめて大きく目を見開いた。そして、俺の腕を強く掴んで必死の形相で叫んだ。

「は、早くこの場から立ち去って下さい!」
「え?」
「いいから、早く!」

あまりにも必死な様子に戸惑いながら、俺は腕を掴んでいるその手を掴み返して。

「落ち着けって!とにかく早くここから離れたほうがいい。ほら、行くぞ」
「ッ!?あ、あの、もしかして視えているんですか!?」

俺が女の子の腕を引くと、女の子は俺を見上げて驚いたように声を上げた。それを聞いて、あぁ、この子もこの状況が視えているんだな、と理解する。俺は一つ頷いて。

「あぁ、俺は悪魔が視えるよ。じゃあ、お前も視えているんだな?」
「はい、私は候補生エクスワイヤの柳と言います。その、貴方は……?」
「俺?俺は……―――」

俺は自分の名を名乗ろうとした、その瞬間。ドン!と女の子を突き飛ばして、背負っていた刀を手に取る。同時に、キィン!という金属音が響いて。

「あ…………!」

女の子が俺の背後を見て、顔を青ざめている。俺は鞘から僅かに抜かれた刃で、ソイツの鋭く尖った爪を受け止めて、淡々と言い放った。

「どうした?『腐の王』アスタロト。今の俺の背後を獲れないなんて、八候王が聞いて呆れるな」
『ぎ、ギぃいいいい』
「……―――」

ガチガチ、と爪と刃が押し問答をする音が、耳元で響く。背後に居るのは、俺よりも背の高い男の姿をした悪魔で、『腐の王』アスタロトだ。ソイツはひどく興奮した様子で、荒々しい息を吐いて、俺を威嚇している。
理性を失っているな、と俺は背後の悪魔の様子からそう感じ取った。普段はこのように暴走するような奴ではないのだ。特に、このアスタロトという悪魔は。
それがこんな風になってしまうなんて、と俺は不思議に思いつつ、柄を握る手に力を込める。ギリギリとこちらに爪を伸ばすアスタロトを斬りつけつつ、鞘から刀を引き抜いた。

『ギ……?ガアアアあああ!』

手のひらを切りつけられたアスタロトは、ボタボタと落ちる自身の血を呆然と見ていたが、すぐに俺に向かって吼えた。
俺は刀を構えることなく、だらりと無防備に腕を下げた状態で、フッと笑った。

「この惨状がお前の仕業なら、責任を取るのは俺の役目だ。……ほら、掛かって来いよ。久しぶりにお前の相手をしてやる」

来い!と俺が刀を構えると、アスタロトは牙を向いてこちらに襲い掛かってきた。俺は刀の刃を返して、勢い良くアスタロトの肩に叩き付けた。ゴツ、という鈍い音がして、アスタロトの肩が力なくぶらりとぶら下がる。一瞬、痛みに顔を歪めたアスタロトは、素早く飛び退いて巨大なキノコの上に着地した。ばふ、と大量の胞子が飛び交って、視界を霞ませる。
すると、俺の背後で座り込んでいた女の子が激しく咳き込み始めた。マズイな、と思いつつ、俺はキノコからキノコへと忙しく飛び移るアスタロトを視線で追った。先ほど脱臼させた肩はもうすでに完治していて、軽快に俺の周囲を飛び回っている。
ばふん、ばふん、とキノコが揺れて、胞子が更に舞い上がる。
……―――このままじゃ、埒があかねぇ。
俺はともかく、背後の女の子は普通の人間だ。いくら祓魔師を目指している候補生とはいえ、『腐の王』が生み出したこの腐海に長く居たら、体に異変をきたすだろう。最悪、死に至る可能性だってある。それだけは、何としても避けなければ。
だけど、焔は使えない。『力の限定』もそうだけど、こんな胞子が飛び交う中で焔を使ったら二次災害を起こしかねない。
どうする、と俺が思案していると、兄さん!と聞きなれた声が聞こえて、ハッと顔を上げた。視線の先には、ガスマスクをした雪男が銃を両手にこちらに走って来ていた。
さすが、ナイスタイミングだ!と俺は顔を綻ばせつつ、雪男に向かって叫ぶ。

「雪男!この子を頼む!」
「え!?兄さん!?」

同時に地を蹴って、忙しく動き回るアスタロトに向かって走り出す。それに気がついたのか、アスタロトは一際大きなキノコに飛び移ると、俺に向かって突進してきた。
俺は素早く刀をアスタロトとの間に滑り込ませる。ギィイイイ、と甲高い音を立てて、爪と刃がぶつかった。

『邪魔ヲ、する、ナ……!』

牙を向いて、アスタロトがそう叫ぶ。俺はその瞬間、アスタロトの腹を思いっきり蹴り上げた。どさり、と倒れこんだアスタロトの上に跨って、顔の横に刀を突き立てる。ザクッ!と地面に刃が突き刺さる音が響き渡って。

「いい加減、目を覚ませ。お前があの日俺に誓った言葉、嘘にするつもりか」

なぁ、アト。

俺がそう呼びかけると、ピタリ、と暴れるのを止めた。そして、俺を呆然と見上げて、あ、と声を上げた。その目は既に正気を取り戻していて、いつもの群青色の瞳に理性の光が宿る。
帰ってきたな、と俺は安心して、アトを見下ろした。

『わ、か、君……?』
「あぁ、そうだよ。俺だ。……俺のこと、分かるよな?アト」

呆然と俺を呼ぶアトに、俺は目を細めて笑った。アトはそんな俺にハッと我に返ったように上体を起こしたので、俺もアトの上から退いた。そうして周囲を見渡して、ようやく自分が何をしていたのかを思い出したのか、アトは真っ青になって。

『も、申し訳ありません、若君!俺は、何てことを……!』
「そのことについては後だ。とりあえず、この腐海をどうにかしろよ」

慌てて俺に頭を下げるアトに苦笑しつつ、俺はそう言った。承知いたしました、と凹んだ様子で、アトは指を一つ鳴らして。それだけで、巨大なキノコや胞子たちが一斉に消滅した。
さすがだな、と感心しつつ、雪男を振り返る。雪男は既に候補生の女の子の手当てをしていて、よく出来た弟を持ったことを誇らしく思った。



突然学園に出現した腐海と、『腐の王』アスタロト。
その騒ぎを聞きつけた祓魔師たちに事後の処理を任せて、俺と雪男はとりあえず候補生である柳という女の子から事情を聞くことにした。幸い、彼女は命に別状はなく、雪男の処置で胞子を吸った後遺症も残らなかった。今は保健室で、軽い点滴をして貰っている。
そして驚くことに、柳は雪男の生徒だったのだ。そして雪男と同じ竜騎士と、詠唱騎士を目指しているのだという。
柳はベッドに横になったまま、雪男を見てすまなさそうな顔をして。

「その、すみませんでした。ご迷惑をお掛けしてしまって」
「いいんですよ、柳さん。それよりも、どうしてこんなことになったのか、教えて貰えますか?」

雪男はにっこりと微笑みながら、そう尋ねた。柳は、それが、と少し思い出す素振りを見せて。

「休み時間になって、次の授業の準備をしている時でした。廊下から中庭を見たとき、偶然、あの悪魔を見つけました。でも、その時は何も気づかなくて。制服を着ていない男の人が、きょろきょろと誰かを探している様子だったので、もしかしたら人を探している外部の方なのかと思って、中庭に行ったんです。でも、近づいてみたら、悪魔が憑依されていると気づいて、奥村先生か誰かを呼ぼうかと思ったんですけど、その悪魔がそこから動かないとも限らなくて。それで……」
「自分で祓おうとした、と?」

雪男が先を続けると、柳は少し気まずそうに頷いて。

「でも、まさか『腐の王』アスタロトが憑依しているとは思わなくて。私じゃ、全く歯が立ちませんでした。それで、『腐の王』はどんどん凶暴化していくし、どうしようかと思っていたときに、丁度通りかかった一般生徒に豹変した『腐の王』の姿を見られてしまって……」
「なるほど、あの悲鳴はその一般生徒のものでしたか。それで、その生徒は?」
「はい。その生徒にはすみませんが、気絶して貰いました。先程いらした祓魔師の方たちにその子のことはお願いしたので、大丈夫だと思います」
「そう、ですか」

ホッと安心したように肩の力を抜いた雪男は、大変でしたね、と労わりの言葉を掛けていた。それを見ながら、俺は内心で疑問を感じていた。
今の話を聞く限りでは、あのアトが凶暴化する要因が見当たらない。俺の知るアトは、むやみやたらと事を荒げることを好まない、悪魔にしては珍しい穏健派だ。まぁ、生まれが生まれなんで仕方ないとは思うけれど。
だとしたら、何故アトはああなってしまったんだ?
俺が考え込んでいると、あの、と声が聞こえて我に返った。柳がこちらを見ていて、慌てて、何だ?と返す。すると柳は少しだけ頭を下げる仕草をして。

「ありがとうございました。助けて頂いて。……その、お名前を伺っても?」
「あ?あぁ、いいって。別に礼を言われることはしてないし。でもまぁ名乗らないのも失礼だよな。……俺の名前は奥村燐。一応、祓魔師、かな?」
「お、奥村って……」

柳は少し驚いたように雪男と俺を交互に見た。うん、その反応はすごく久しぶりだな。
雪男もそう思っているのか、小さく苦笑して。

「はい。この人は僕の双子の兄さんです」
「えぇ!?あの、全然似ていない、です、ね………」
「まぁ、二卵性双生児だしな。それに俺、眼鏡じゃないし」
「そうですね。僕は兄さんみたいに目つきが悪いわけじゃありませんから」

にっこり、と俺と雪男はお互いを見つめあいながら笑った。多分、お互いに顔が引きつっていたと思う。普段ならここでこのまま口論になるものの、お互いに柳がいる手前、ぐっと我慢しているのが手に取るように分かった。
そんな俺たちを不思議そうに見上げていた柳は、小さく吹き出して。

「でも、奥村先生のそんな顔初めて見ました。やっぱり、兄弟なんですね」

くすくす、と笑われて、そうなのだろうか、と思う。だとしたら、少し嬉しいかもしれない。
似てない、と言われることには慣れていた。出来の悪い兄と出来のいい弟では、そりゃ、似てないと言われるのは当然のことだけど。でも、やっぱり雪男と兄弟なんだと肯定されると、すごく嬉しくて。

「……そうですね。僕と兄さんは、たった二人の兄弟です」

そして、そのことを肯定してくれる雪男の言葉が、俺にとっては何よりも一番嬉しい言葉だから。
俺は緩む頬を誤魔化しながら、当然だろ!と言った。



とりあえず、アトと話す必要があるなと思った俺は、保健室を後にすることにした。まだ心配だからと雪男はその場に残ると言ったので、しばらくして戻ってくればいいか、と考えて、保健室から出て行く。バタン、と扉を閉じて、俺はフッと苦笑を漏らす。

「……ずっとここにいたのか、アト」
『……』

アトは保健室の扉の横で、じっと佇んでいた。その瞳は暗く沈んだ色を宿していたので、またコイツは一人でグルグルと悩んでるな、と思う。俺がじっとアトを見つめていると、ゆっくりとその口を開いて。

『申し訳、ありません、若君。俺は……』

とんでもないことを、と言おうとしたその口を遮るように、俺はアト、と彼を呼んで。

「とにかく、事情を話せ。謝るのはそれからでも十分だろ?」
『……はい』

アトは暗い顔のまま、ことの次第を話し出した。

『物質界に来て、俺は懐かしくなって散歩に出掛けました。ところが道に迷ってしまい、誰かに道を尋ねようとしました。だけど誰も通りかからなくて困っていたところに、あの子がやって来て。俺はただ、道を尋ねようとしただけだったのですが、あの子は魔障を受けた祓魔師だったようで、俺の正体を見破って祓おうとしました。俺は貴方のこともあるし、とにかく逃げようと思ったのですが……。あの子、聖書の逆説を詠んでしまいまして。何とか抑えようとしたんですが、逆らえずにあのようなことに……』

すみません、と項垂れるアトに、あちゃーと俺は頭を抱えた。
聖書の逆説とは、聖書を逆に詠むことを意味していて、裏説とも呼ばれているものだ。これは聖書とは逆の意味を成し、悪魔の力を増幅させることができる。ただしこれが成功するのは優れた詠唱騎士でないとまず無理だし、致死節が分かっていなければならない。多分、あの子は偶然、『腐の王』アスタロトの致死節を、しかも逆説のほうを詠んでしまっていたらしい。
不幸中の幸い、というべきか。もしあの子が逆説を詠まなければ、アトは祓われていた可能性が高い。だけど、逆説を詠んだことでアトは凶暴化してしまった。どちらに転んでも、あまり言い展開ではないことは確かだ。
だけど、アト自身に責はないだろう。俺は仕方ないな、と笑って。

「事情は分かったよ。とりあえず、お前が無事で良かった」
『はい、ありがとうございます、若君』
「でも、これからは注意してくれ。いつ、どこに祓魔師がいるか分かんねぇんだ。お前の気持ちは分かるけど、これだけは頭に入れておいてくれ」
『はい……、すみません』

切なげに目を細めるアトに、俺も少し心が痛んだ。
俺も、自分の立ち位置に戸惑うことのほうが多い。虚無界に行く前は、俺は祓魔師として人間を救うことに何の疑問も持っていなかった。だけど、実際虚無界に行って、アトやレン、ベルにアン、物騒だけど俺には優しくしてくれる悪魔たちの存在があって。俺自身、祓魔師として悪魔を祓えるのだろうか、と疑問に思うことがある。
……―――こんな風に思うのは、やっぱり俺が悪魔だからだろうか。
考えて、今更だな、と苦笑する。俺は悪魔の王だ。物質界と虚無界を守る為に、俺は王になった。そしてこの物質界、いや、雪男の隣に帰りたくて、帰ってきた。
だから、この方法でしか俺が雪男の傍にいられないというのなら、俺はこの道を進もうと思う。

『若君』

そんなことを考えていると、アトが俺を呼んだ。どうした?と首を傾げると、アトは少し言い難そうな顔をしつつ、チラリと保健室の扉を見て。

『若君……。彼が貴方の「弟」ですか?』
「……―――あぁ、そうだよ。俺の双子の弟の、雪男だ」
『そう、ですか』

俺が頷くと、アトは複雑な顔をした。俺はその顔を見て、ピンときた。なるほど?と俺は微笑ましく思いながら小さく笑って、くしゃりとアトの黒髪を撫でた。

「雪男は俺の大事な弟だけど、お前だって、俺の大切な「弟」だよ。アト」

さら、とアトの頭を撫でながらそう言うと、少し驚いた顔をしたものの、すぐに照れくさそうに笑って。俺の肩に額を押し付けながら、アトは小さく囁く。

『……、ありがとう、「兄さん」』

嬉しい、という気持ちを隠すことのない『弟』の背中をゆっくりと撫でながら、ほんの少しだけ過ぎった罪悪感に蓋をした。
……ごめんな。
俺は内心で誰にともなく謝って、瞼を閉じた。
その時。

ガラ、と保健室の扉が開いて。

「!……、兄、さん?」

呆然と、俺とアトを見つめる大事な「弟」のひどく驚いた顔が、妙に目に焼きついた。







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