愛してる、の因縁




七月、僕は銃をホルスターに戻す。目の前のアスタロトは悪魔で油断ならない存在だが、兄さんに忠誠を誓っている悪魔だ。兄さんの意にそぐわない行動はしないだろう。そう判断してのことだった。
そんな僕にアスタロトは目を細めて。

『銃を下ろすなんて意外だな』
「貴方は確かに悪魔だけど、兄さんに不利になるような行動はしないだろ?だったら、僕が銃を向ける理由がない」
『……なるほど』

アスタロトは頷くと、突然ハッと顔を上げた。廊下の天井を見上げて、険しい表情をしている。
何かを感じ取っているようなその表情に、僕も自然と力が入る。
どうした、と問う間もなく。

『……―――、来る』

ぽつり、とアスタロトが呟く。その次の瞬間。

『わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである。「彼を知っている」と言いながら、その戒めを守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の御言を守る者があれば、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼にあることを知るのである』

詠唱が、聞こえる。
どこまでも遠く響く、誰かの詠唱うたが。

「これは……、『ヨハネの第一の手紙』!?」

一体誰が、と僕が周囲を見渡していると、アスタロトが僕に背を向けて廊下の窓を開け放った。そして、窓枠へと足をかけて、勢いよく外へと飛び出して行った。

「ちょ!?」

僕は慌てて、窓に走り寄る。アスタロトは人間離れした動きで近場の木に飛び移り、屋上へと跳躍していた。
どうやら、この詠唱をしている人物は屋上にいるらしい。
僕は嫌な予感がして、屋上へと続く階段を駆け上る。
先ほどのアスタロトの行動が兄さんとよく似ていて、何となく、複雑な心境になりながら。




『愛する者たちよ。わたしがあなたがたに書きおくるのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めである。その古い戒めとは、あなたがたがすでに聞いた御言である。 しかも、新しい戒めを、あなたがたに書きおくるのである。そして、それは、彼にとってもあなたがたにとっても、真理なのである。なぜなら、やみは過ぎ去り、まことの光がすでに輝いているからである。光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである』

詠唱が響く。

屋上へとたどり着いたアスタロトは、詠唱を続けるその人物を、じっと見つめた。
まるで祈るように、どこか憎むように、その人は謳う。
そして、ゆっくりと口を閉じたその人は、アスタロトを真っ直ぐに見据えて。

「やぁ、兄弟。元気そうで何より」
『……悪魔が詠唱を謳う、か。随分と皮肉が上手くなったじゃないか』
「お褒めに預かり光栄だよ」

にこり、と無邪気に笑うその人を、アスタロトはただ淡々と見つめた。
正十字学園の男子制服に身を包んだ彼は、やや赤みがかった茶色の髪を後ろで一つに結わえて、深緑色の瞳をしていた。ゆるりと緩んだ口元と大きな瞳が印象的で、ただ立っているだけなのに、目を惹きつけられるような顔立ちをしていた。

「一番上の兄さんも、さっきまで物質界アッシャーにいたみたいだけど、すぐにあっちに帰っちゃったみたいだし。末の君がここに残ったということは、アイツが君にここに残るように命令したのかな?随分と弱気なオウサマだね」
『違う。俺が自ら望んでこの世界に残った。あの人はそれを望んではいなかった』
「庇わなくてもいいよ。どうせ君はオウサマの下僕だ。何を言ったって、アイツが何をしたって、アイツが正しいと君は言うだろうからね」
『……』

彼は笑顔を浮かべながらも、憎々しげにそう言う。
アスタロトが眉根を寄せていると、彼はゆっくりとアスタロトへと向かって歩き出した。

「君だって、本当は分かっているんだろう?一番末に生まれたからこそ、僕たち兄弟がどんな扱いを受けて来たのか。君だって最初はアイツを憎んでいたじゃないか。なのに、今ではすっかり大人しい犬に成り下がってしまって。立派な力を受け継いだのに、君はその力を使わずにいる。それが僕には憐れでならないんだ」
『……俺はこの力を無闇に使ったりしない。そう、あの人と誓ったんだ』
「違うよ、誓わされたんだ。あの、青い外道に」

皮肉なことに、と彼は笑う。

「君や一番上の兄さんは、強い悪魔の血を引きながら、あのオウサマの元に居る。それは悪魔の血が濃すぎるからなんだ。だから、血があのオウサマに従ってしまう。人間の血がもう少し多ければ、きっと僕たちは別れることはなかった。そう思わないか?……ルカ」
『今の俺は腐の王、アスタロトだ。俺はこの名を、誇りに思っている。だから、もうその名で呼ぶな。……ユダ』
「そう。……やっぱりそうなんだね」

アスタロトが真っ直ぐにそう言い切ると、ユダと呼ばれた彼は少しだけ目を伏せた。だが、次の瞬間には元の笑みを浮かべていて。

「君も一番上の兄さんも、僕たちにとっては大事な兄弟だ。だけど、君たちがオウサマを守るとなれば話は別だ。悪いけど、僕たちはオウサマを殺すよ。絶対に」
『させない。俺が、俺たちがさせない。絶対に』

ざわ、と風が吹き荒れる。荒々しい風が二人の間を通り過ぎて、二人の髪や服を揺らした。
対峙する二人は、どちらも目線を逸らさない。ただ、じっと相手を見つめて。
しばらくの間沈黙したままだった二人は、聞こえてきた足音にお互いの顔を見合わせた。同時に、屋上の扉へと目を向ける。

「やれやれ、どうやら鼻のいいオウサマの弟君がやって来たみたいだね」
『……』
「ここは一先ず退散させてもらうよ。……近々、また会うことになるだろうね。勿論、他の兄弟たちもこの学園に潜んでいるから、あの子達も挨拶に来るだろうから。そのつもりでいるといいよ」

じゃあね、とユダは笑って、ピュウ!と口笛を吹く。すると、上空から翼を持った異形の鳥が舞い降りて、ユダはその足に捕まると、颯爽と飛び立ってしまった。

「アスタロト……!」

ユダが空へと消えて行くのと同時、雪男が荒々しく扉を開け放って現れた。だが、そこに残ったのはアスタロトのみで。

「一体、何が……」

雪男が周囲を警戒しつつ見渡していると、アスタロトが神妙な面持ちで雪男を見て。
あ、と口を開きかけて、止める。
このことを、目の前の祓魔師に話すべきか。アスタロトは迷った。だがきっとあの人は、まだこの男に話すことを望んでいないだろう。あの人はこの男を巻き込むことを、ずっと恐れていたのを知っているから。
だから、アスタロトは口を閉ざす。そして、あの人に守られているこの男のことが、やっぱり気に食わない、と思った。




アスタロトの様子が、どこか可笑しい。
僕はその雰囲気を何となく察していた。
突然聞こえた詠唱、そして飛び出して行ったアスタロト。だけど行った先にいたのはアスタロトだけで、他には誰もいなかった。……いや、もしかしたら、僕が来る前には誰かいたのかもしれない。それは誰なのか、目的は何なのか、それは分からないけれど。
固く口を閉ざしたままのアスタロトには、僕は何も期待していない。元々、馬が合うとは思っていないのだし、僕が聞いたところで彼は何も答えないだろう。
ただこの異変には、必ず兄さんに関係している。そう、確証はないけれど確信している。
……兄さんが虚無界ゲヘナにいた頃の話をしたがらないのを、僕は知っている。何があったのか、そして、今、何が起きているのか。きっと兄さんは知っている。
そしてそれに、僕が関わることをあまりよく思っていない。いや、兄さんの大切な人たちが関わること事態を、避けているのかもしれない。
だけどそれは、僕や兄さんの仲間たちを傷つけることになるのだと、兄さんはきっと知らない。

兄さんが虚無界ゲヘナに行ってしまった後のことを、僕が知らないように。
兄さんも、僕たちがあの三年間をどうやって過ごしたのか、知らない。

だから、兄さんはそうやって突き放すことができるんだ。

僕は軽い苛立ちを覚えながらも、とにかく冷静になるよう自分に言い聞かせる。
そして、今の自分にできることを考えよう。そう思った。
僕がじっと考え込んでいると、アスタロトが、とりあえず、と話し出して。

『俺は「若君」の元へ行こうと思うんだが……』
「あぁ、そうだね。とりあえずフェレス卿の許しがないといけないだろうし……。僕は柳さんの様子を見に行くから、ここで別れよう」
『……あぁ』

アスタロトは頷いて、屋上の扉へと歩き出した。その背中を見送って、僕は一つため息を付く。
やっぱり、彼とは馬が合わない。話しているだけでも、妙に体力を使ってしまう。
僕は少し重くなった体を引きずって、保健室へと向かった。



保健室の扉の前までやってくると、中で話し声が聞こえた。誰かいるのだろうか、と扉を開けると、柳さんが休んでいるベッドの横に、誰かいる。正十字学園の制服に身を包んだその生徒は、柳さんと親しげに話していて、入ってきた僕に気づくと、にこりと笑って頭を下げた。
僕も一つ頭を下げ返して、中へと入る。柳さんの友人だろうか。見かけない顔だな、とその生徒を見つめていると、その視線に気づいた柳さんが。

「あ、先生。この子は私の幼馴染で、先日この正十字学園に転入して来た子なんですよ」
「あぁ、なるほど。見かけない顔だな、とは思ったんですが……。転入生だったんですね」
「……―――『先生』?」

転入生だという彼は、僕の顔を見て不思議そうな顔をした。まぁ、見た目的にもまだ若い僕が先生と呼ばれていることを不思議に思うのも無理はない。かといって、彼が悪魔のことや祓魔師のことを知っているのかは分からないし、迂闊に喋って柳さんの友人関係をこじらせるわけにもいかない。
さて、どう説明しようか、と思っていると、僕の考えを察したのだろう、柳さんが慌てて。

「えっと、その、大丈夫ですよ。彼は悪魔のことも、私が祓魔師を目指していることも知っています。それに、彼も魔障を受けているので、悪魔の姿が見えるんですよ」
「あ、そうだったんですね。それなら説明が早い。……僕の名前は奥村雪男。柳さんに悪魔祓いの講師をしている者です」
「なるほど、それで『先生』なんですね」

分かりました、と笑う転入生。さらり、と彼の茶色の髪が揺れる。随分と落ち着いた子だな、と思っていると、彼はすっと僕に手を差し出して。

「はじめまして、いつも柳がお世話になってます。……僕の名前は夕田ゆうだ満、と言います」

そう言って、彼はその深緑色の瞳を細めた。







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