愛してる、の覚醒




七月、僕は塾生である柳さんの幼馴染だという、有田君の姿をひっそりと見つめていた。
彼は柳さんと終始楽しそうに話していて、仲の良さそうなその雰囲気から、僕は自分がお邪魔じゃないだろうか、と勘ぐった。どうもこの二人に流れる雰囲気は、ただの幼馴染というだけではなさそうに見えて、少々居心地が悪いのが正直なところで。

「それじゃあ、柳さんも大丈夫そうですし。僕は戻りますね」

と、その雰囲気を察して一度退散しようとしたのだが。

「あ、まだ待って下さい!柳がお世話になっている『先生』のお話もお聞きしたいです」

などと何故か有田君に引き止められてしまい。僕はしぶしぶと簡易イスに腰を落ち着けた。
有田君は落ち着いた雰囲気とは裏腹に、話してみると好奇心旺盛な子だというのがよく分かった。僕が過去に祓ってきた悪魔の話を聞かせてあげると、興味深そうにフンフンと聞いてた。
その姿がどことなく兄さんに似ていて、僕は内心で笑みを浮かべた。兄さんも、候補生の頃はよく任務に(勝手に)付いて来たり、任務に帰って来た僕の話を聞きたがったりしていたから。

何となく微笑ましい気持ちになりながら話していると、慌しく廊下を走る音が聞こえてきた。
誰だろう?廊下は走ってはいけないはずだし、こんな金持ちの学園で廊下を走る生徒なんて昼食の時以外には殆どいない。よほど慌てているのだろうか、と思っていると、その足音はどんどんこちらに近づいてきて。

「雪男っ!」

ガラ!と扉がいき追いあまって壊れてしまいそうな勢いで現れたのは、一時間前くらいに別れたはずの兄さんで。
兄さんは呆気に取られている僕の顔を見た後、ホッと安心したような表情を浮かべた。そして、有田君を険しい顔つきで睨む。
僕はその険しさに、軽く息を呑む。

「兄さん……?」
「……―――、まさかとは思ったけど、いきなりお前に会えるなんてな……。随分と久しぶりじゃないのか?……―――ユダ」
「……―――」

兄さんは真っ直ぐに有田君を見つめた。その青い瞳が熾烈に輝いているのを見て、今この場に何か重大なことが起こっているのだと理解した。
ゆっくりと、兄さんがこちらに向かって歩いてくる。コツ、コツ、と靴音を鳴らして。
だけど視線だけは真っ直ぐに逸らさないでいるせいか、妙な威圧感がある。
これが、何万といる悪魔たちを平伏させている、虚無界ゲヘナの王の力、ということなのだろうか。

「ユダ。お前の目的は俺だろ?だったら下手な小細工は抜きにして、俺を狙えばいい。俺は何時だって相手になってやる。だがな……俺の大事なやつに手ぇ出してみろ。……今度は、加減しねぇ」

兄さんはそう言って、僕の傍までやって来た。ベッドを挟んで、兄さんと有田君が対峙する。言いようのない緊張感がその場に流れて、僕はとにかく何が起きても大丈夫なように身構えた。
その、時。

「ふ。ふふふ……。あははははは!」

突然、有田君が笑いだした。声を上げて、狂ったように。それまで落ち着いた雰囲気を持っていた彼とは正反対のその笑い方に、僕はゾクリと嫌な悪寒が駆け抜けて。

「あはは!さすがオウサマだ!面白いことを言うね。先に僕たちの大切な兄弟を奪ったのは、オウサマの方じゃないか!」

ひとしきり笑った有田君は、目じりに浮かんだ涙を拭いながら、愉しそうにそう言った。すると、兄さんは少しだけ顔をしかめて、苦々しい表情を浮かべた。そんな兄さんに、有田君はそうでしょ?と目を細めて。

「オウサマは僕たちの大切なモノを奪っていくのに、僕達がオウサマの大切なモノを奪って何が悪いの?……僕はね、オウサマ。オウサマが大切なモノを失くして絶望したまま死ぬことを望んでいるんだ」
「……―――ユダ……!」

彼は、無邪気に笑いながらそう言った。どこか狂気めいたその表情に、僕はとっさに銃を抜いた。

「雪男……!」
「……へぇ……?」

兄さんが驚いた声を上げた。対して、有田君は真っ直ぐに銃口を向けられているにも関わらず、飄々とした態度を取っていた。その態度が、ますます僕の何かをくすぐって。
この少年は、只者ではない。そう、確信する。
僕がキッと目の前の少年を睨みつけると、彼はなるほど、と納得したような顔をして。

「オウサマの弟君は意外と銃を抜くのが早いんだね。もっと冷静な人だと思ってたけど。やっぱりオウサマが関わると沸点が低いってほんとなんだね」
「……―――君が何者で、兄さんとどういう関わりがあるのかなんて知らないけど。兄さんを殺すというのなら、僕は銃を抜くさ」

当たり前だろ、と言えば、有田君はひょいと肩を竦めた。

「やれやれ、兄想いの弟さんだね。でも……たかが祓魔師が僕に、いや、『僕たち』に勝てると思ったら、大間違いだよ」

次の瞬間、有田君の姿が突然消えて。
え、と思ったその時、僕の背後からガキィイ!という金属のぶつかる音が聞こえて、慌てて振り返る。僕のすぐ後ろにはいつの間にか兄さんがいて。そして……。

「な……!」

左腕がまるで違う生物のように変化した有田君が、その左腕で兄さんが構えた刀と押し問答をしている。彼の左腕は無数の赤黒い棘が隣接し、触れた者の肉を容易に抉るだろう。恐らく、その腕で僕に襲い掛かった有田君を、兄さんが間に入って止めたのだろう。
僕はほんの少しの間驚いていたものの、すぐに彼に向けて銃を放つ。だけど彼は後退して距離をとり、その弾丸を避けた。この至近距離で銃弾を避けられるような、そんな人間離れした動きを見て、彼が人間ではないことを理解する。

「……弟に手ぇ出すなって言っただろ」
「僕も言ったはずだよ。オウサマが大切なモノを失くすのを望んでる、って」
「させるかよ!」

兄さんは叫びつつ彼に詰め寄り、刀を振る。だが、それさえも避けた彼は、また姿を消した。
ハッと思ったときには、もうすでに背後に気配を感じて。グッと背後から伸びた腕が、僕の首を捉えた。

「ぐ……っ!」
「雪男ッ!」
「残念だったね、オウサマ」

僕の勝ちだ、と彼は僕の耳元で笑う。
左腕とは逆の方の腕を首に回されて、しまった、と思う。何とか腕を、振えりほどこうとしたものの。彼の腕はその細さに似合わず力が強く、振りほどけない。

「オウサマ。貴方の大事な大事な弟は僕の腕の中だよ。さぁ、どうしようか?」
「ふざけんな!雪男を放せ!」
「ふざけてなんかいないさ!僕はいたって真面目だよ。さて、どうやって殺したらオウサマは一番傷つくかな?」

くすくす、と楽しげに言いながら、彼は棘の生えた左腕を僕の頬に伸ばす。つ、と僅かに触れただけなのに、僕の頬に一筋の紅い線が走る。流れる血が棘を伝い、赤く染めた。

「止めろ……!止めてくれ!」
「あはは!いいよその声だ!その声で僕をもっと悦ばせてよ!」

少年は、狂ったように笑う。酷く興奮しているのか、彼の呼吸音が煩い。笑い声が耳に付いて、ひどく不愉快だった。
僕を捕らえて兄さんの弱みを握ったつもりでいるのだろうか。だとしたら、彼は僕を甘く見すぎているし、この状態を考えて有利になっていると思っているのなら、大間違いだ。

カチリ、と僕は握った銃の安全装置リミッターを解除。
そして声を上げて笑う少年の、僕を捉えている方の腕を逆に掴んで。
何、と驚く少年の声が耳をかすって、僕はニヤリと笑う。

「残念だけど。僕には人質としての価値はないよ」

そう言い放って。
右手に持った銃を背後に向かって突きつけて、トリガーを引く。
ぱぁん!と乾いた銃声が右の耳元で破裂。同時に、少年の悲鳴が木霊して、僕は緩んだ腕を引き剥がすと、すぐさま距離をとって銃を構えた。

「雪男!大丈夫か?」
「うん。僕は大丈夫。それより……」

兄さんが心配そうに駆け寄って来たので、安心させるように笑う。すると兄さんもホッとした顔をして、有田君を見た。

「は、ははは。……さすが、……オウサマの弟。一筋なわでは、いかないね」

彼は自分の右肩を押さえて、それでも笑っていた。どうやら僕の放った弾丸を間一髪避けたようだ。ただ、完全には避けきれずに、彼の肩を掠ったみたいだった。
あの距離でも弾を避けきれるなんて、と僕が驚いていると、兄さんが一歩前に出て、刀を構えた。
その背中は、どこか寂しげで。今どんな顔をしているのかなんて分からないけれど、何となく、兄さんは寂しげに笑っているような気がした。

「ユダ。お前や、お前たちの兄弟とは、いつかちゃんと話したいと思ってた。……話せば、分かってもらえるって、信じてた」
「……―――」
「それは、今も変わらねぇ。だけど……俺には譲れないもんがあるんだよ。そしてそれを壊そうとする奴を、絶対に許すわけにはいかねぇ」

だから、と兄さんは真っ直ぐに彼に向かって刀を向けて。

「お前は、俺の大事な奴を傷つけた。だから、お前は絶対に許さない」

きっぱりと言い放った、その瞬間。
青い炎が、兄さんの体を覆って。僕は目を見開く。
青い、炎。
兄さんがこちらに帰って来てから一度も見ていないその炎が、今、目の前にあって。
何故だか知らないけれど、背筋がゾクゾクとした。鮮やかなその青は、見る者に恐怖を抱かせるが、同時に、酷く魅入られてしまうのだと言う。だとしたら、今の僕は完全にその青に魅入っていて。

「……―――、覚悟しろ」

兄さんが、青い炎を纏って疾走する。刀がその青に反射して、淡い光を放つ。
肩を抑えたままの有田君は、兄さんを佇んだまま見つめていて、諦めたのか、と思ったその瞬間。

二ィ、と彼の口元が笑みを浮かべて。

「兄さん!」

僕が異変に気づいて兄さんを呼ぶのと、同時。
ぐちゃり、と嫌な音がして。

兄さんの背中から、腕が生えた。

「……―――あ……?」

兄さんが、困惑の声を上げる。僕も、ただその光景を、見つめるしかなくて。
兄さんの体から生えた腕は、赤く染まっていた。その赤を見て、唐突に理解する。
兄さんの体を、その腕が貫いたのだということに。

「な、……ん……っ」

ごほ、兄さんが咳き込むと、その腕が兄さんの体から引き抜かれた。同時に兄さんががくりと膝を付いて、ようやく、兄さんの体を貫いた腕の正体に気づく。
真っ赤に血で濡れた制服を身に纏った、彼女を。

「……残念だったね、オウサマ」

有田君は膝を付いた兄さんを見下ろして、ニヤニヤと笑う。その顔にはもう先ほどの苦悶の表情はなく、それさえも演技だったことを知る。
そして彼の隣に、彼女は立っていた。無表情のまま、ただ、兄さんを見下ろしている。
僕は呆然と彼女の名を呼ぶ。

「柳、さん……」

どうして彼女が、と僕は呟く。すると、それを聞きつけた有田君が、スッと目を細めた。

「教えてあげようか、オウサマの弟君。彼女はね、僕の兄妹。いや、僕の恋人、と言ったほうが良いかもしれないな。……そうだろう?………、ミカ」

有田君が柳さんに向かって尋ねれば、彼女は小さく頷く。そして、有田君の左手に手を伸ばすと、そっと握り締めた。鋭い棘の生えた、その手を。自分の手が傷つこうとも、構わずに。

すると、兄さんがビクリと肩を震わせて、呆然と柳さんを見上げた。そして、嘘だ、と呟く。

「彼女が「ミカ」だと?そんなの、嘘だろ……!だって、彼女は」
「そうだね。オウサマが殺した。だけどミカは、こうして戻って来たんだよ。僕の為に」
「……ッ、輪廻転生か。お前、ミカの魂をその子の体に植えつけたんだな!ミカを甦らせる為に!」

ぎりり、と奥歯を噛み締めて、兄さんは苦々しくそう言った。
輪廻転生。
魂は死してもなお巡るという仏教の考え方だ。つまり有田君は「ミカ」という人が死んだ後にその人の魂を死体から取り出し、柳さんの体に移植したということだ。
だがそれは、あまりにも危険なことだ。一つの身体に二つの魂を入れるということは、それだけ身体に負担が掛かるということだ。
そんな危険を冒せば、柳さんの身体はおろか、柳さんも「ミカ」という人の魂さえも消滅してしまうかもしれない。

「何て危険な真似をしたんだ!今すぐ柳の体からミカの魂を抜け!」
「無理だよ、オウサマ。ミカの魂はすでにこの子の体に定着している。今無理に抜こうとすれば、この子の魂も道づれになるよ」
「……クソッ!」
「残念だったね、オウサマ。だけど手遅れさ。ミカはもう完全に戻ってきてしまった」

だから、と有田君は笑って。

「僕はもう負けないよ」

呆然とする兄さんに、有田君はその左腕を振り下ろす。僕が慌てて銃を抜こうとすれば、柳さん、いや、ミカが二人と僕の間に体を滑り込ませて、僕はチッと舌打ちをする。

「兄さん……!」

避けろ、と僕が叫ぶとの同時に。

『兄さん……!』

僕と同じように、兄さんを呼ぶ声が聞こえた。
ハッと扉の方に目を向ければ、慌てて来たのか肩を上下させた『腐の王』アスタロトがいて。

『兄さんから離れろ!ユダ!』

カッと目を見開いたアスタロトが叫ぶ。すると、空気中を漂っていた魑魅魍魎コールタールが一斉に動き出して、兄さんと有田君の間に壁を作った。
それに有田君が怯んでいる隙に、アスタロトは一気に兄さんの隣へと走り寄った。

「さすがは『腐の王』。腐っても八候王の一人ってわけね」
『……兄さんを傷つけたな……。絶対に許さない。お前は俺が殺してやる……!』

ギロリ、とアスタロトが牙をむく。怒り心頭といった様子のアスタロトに、有田君は面白くなさそうな顔をして。

「三対二じゃ分が悪いな。……ここは一先ず退散させてもらうよ。行こう、ミカ」
「ま、待て!」

兄さんが引き止めるようにそう叫ぶものの、彼らは素早い動作で保健室の窓まで走り寄ると、そのまま窓から外へと飛び出して行ってしまった。

「ま、待って……くれ……」

兄さんは有田君に手を伸ばしたまま、どさりと倒れこんだ。ドクドクと血が溢れ出して、兄さんの顔は真っ青になっていた。

「兄さん!」
『兄、……ッ、若君……!』

僕とアスタロトが、慌てて兄さんを呼ぶ。兄さんは固く瞳を閉じたまま、気絶してしまっていて。
僕は慌てて兄さんのシャツを引き裂いた。特に出血が酷い胸の穴、ミカによって貫かれたその場所を見る。赤黒い血が溢れ出したその場所は、もうすでに治癒を始めていて、僕は軽く息を呑む。そして、そうだ、と思う。兄さんは虚無界ゲヘナの王で、ゆえに体の造りは人間とは違うのだ、と。
でもだからこそ、普通の人間なら即死の傷でさえも、すぐに塞がる。それを確認して、僕はホッと息をつく。

良かった、と思いつつも、兄さんの辛そうなその顔を見て、僕はそっとその頬へと手を伸ばした。

……、兄さん。

兄さんが抱えているモノを、僕も一緒に抱えるから。
だから、そんなに辛そうな顔をしないで。
僕が、ちゃんと傍にいるよ。


少しでもこの気持ちが伝わるように、と僕はその頬を撫でた。










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