愛してる、の距離




七月、俺は真っ暗な空間にいた。前も後ろも、上も下も、全て真っ暗な闇。そしてその闇の中で、誰かが泣いている声を聞いた。
誰だろう?こんなに、悲しい声で泣いているのは。
そう思いながらも、俺はその声が誰なのか、何となく理解していた。

「……雪男」

俺は、その名を呼ぶ。すると、泣き声はぴたりと止んで。

「兄さん……」

小さな雪男が、暗闇の中から真っ直ぐに俺に向かって走り寄って来て、俺の腰に抱きついた。その小さな背中に、俺は腕を回す。雪男は俺の腰に顔を埋めたまま、兄さん、と震える声で俺を呼ぶ。

「兄さん。怖いよ」
「大丈夫だ。俺がお前を守るよ」

大丈夫、と何度もそう言い聞かせて、その背中を撫でる。小さく震えるその身体を、安心させるように抱きしめて。すると、雪男の身体から震えが止まって、俺はホッと安心して、その顔を覗き込んだ。大丈夫だ、と笑いかけるつもりで。
だけど、俺はその顔を覗き込んで、絶句してしまった。

雪男は、その瞳から赤い血の涙を流していて。

「ゆき……!」
「兄さん」

大丈夫か、と問おうとした俺の声は、しっかりした雪男の声に遮られた。小さな雪男は、いつの間にか成長した姿になっていて、その頬を血で濡らしながら、笑っていた。

「……兄さん」

そして、黒く光る銃を、俺に突きつけて。

「……―――、いっそ、死んでくれ」

ぱぁん!と乾いた銃声が、まるで他人事のように響いて……。





「っ、雪男ッ!」

は、と目を覚ますと、真っ白な天井が目の前にあった。そして、空に手を伸ばす、自分の手も。
はぁはぁ、と自分の荒い呼吸音が煩い。全身が汗でびっしょりになってしまって、シャツが肌にはりつく感触が不快だ。
俺は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。だけど、すぐに意識を失う直前のことを思い出す。
兄さん、と俺を呼ぶ、焦ったような弟の声。どくどくと高鳴る心臓と、溢れ出す鮮血。去っていくユダとミカ。突き立てられた腕と、その腕を引き抜かれるときの、嫌な感触。
だけど、ぽっかりと空いていたはずの胸の穴は、もう塞がってしまっていて。
俺は、その穴があったであろう場所をシャツの上から撫でて、少し笑ってしまった。

ほんの数年前までは、こんな人間離れした体があまり好きではなかった。だけど、今は違う。この身体は誰かを守るためにあるのだと、理解しているから。
俺はぎゅっと、シャツの胸元を握り締める。そして、先程の夢を思い出す。
アレは、あの夢は、俺が虚無界ゲヘナに行った最初の頃に、よく見ていた夢だった。最近では全く見なくなった、悪夢。
もう、その内容すら忘れかけていたのに、また夢に見てしまった。多分、「青い夜の子」たちと接触したからだろう。俺は自分でそう冷静に判断しつつも、指先が震えるのを感じた。

「……っ、ゆきお」

無性に、弟の顔が見たいと思った。
あの頃も、そうだった。虚無界ゲヘナであの夢を見た後は、いつも雪男に会いたくなって。でも、自分で拒絶した手前、そんなこと言えるわけもなくて。それに会いたいと言ったところで、会えるわけもなかった。だから、あの頃はずっと、こうして固く手のひらを握り締めて、我慢していた。
だけど今はもう、そんな風に会いたくても会えないわけじゃなくて。

「ゆきお……ッ」
「兄さんっ?」

俺が震える声でそう呼べば、保健室の扉を開けて、雪男がやって来てくれた。俺の様子を見て、どうしたの?と心配そうに駆け寄ってくれるから。
その姿を見ただけで、俺は安心できた。だけど、その頬に張られた大きなテープに、ザワリと心が騒いで。

「っ、これ……」

俺は震える指先で、そっとソレに触れる。すると雪男は、大丈夫だよ、と眼鏡の奥の瞳を緩ませた。

「見た目ほど、大した傷じゃないよ。それよりも、兄さんの方が重症だったんだからね」

少し責めるように、雪男は言う。心配したんだよ、と。
だけど、俺の傷はもう消えてしまっていて、でも、お前の傷はまだこうして残っている。
俺がふるふると頭を横に振れば、雪男は少し困ったような顔をした。でもすぐに、頬に伸ばした俺の手に、そっと手を重ねて。

「この傷は、兄さんを守ろうとした証だ。名誉の負傷、ってヤツだよ。僕にとってはね」
「雪男……」
「これで少しは兄さんと一緒に歩けるかなって、兄さんの足手纏いにならないって、思えるから」

嬉しいんだ、と笑う雪男に、俺は力強く頭を横に振った。それは違うぞ、と。

「お前は、俺なんかよりも強いよ。俺はいつだって、お前に追いつきたくて必死だったし。それにさっきのだって、俺はお前を盾にされて動揺したけど、お前は冷静だった。お前が冷静でいてくれたから、皆無事だったんだ」

そう、雪男はいつだって、ジジイとは違う意味で俺の目標だった。
追いつきたい。その隣に立ちたい。いつだって、そう思っていた。だから、雪男が俺に劣っているなんて、絶対にそんなことはなくて。
それを言えば、雪男はくすぐったそうに笑って、こつん、と額を合わせてきた。

「じゃあ、僕たちはこれでやっと……」

同じ場所に、立てたのかな。

その言葉に、俺はスッと肩の力が抜けた。
そして、何をやっていたんだろう、と思う。大切な人を傷つけたくないばかりに問題から遠ざけて、でも結局、雪男は今回のことに関わってしまった。そして、雪男が優秀な奴でなければ、今頃きっと殺されていた。俺の、目の前で。
だけどもし、俺が少しでも『青い夜の子』のことを話していれば、また、きっと違っていた。
知らないことは、時として致命的なことになる。今回が、まさにそれだった。
だけど知ることで、知らせることで、守ることになるのなら……―――。

俺は、ぎゅっと目を閉じる。まだ、話すことに躊躇いと怖さを感じる。
話さなきゃ、と俺が何度も口を開いては閉じる、ということを繰り返していると、俺の様子に気づいた雪男が、兄さん、と俺を呼んで。

「言ったよね、兄さん。僕は、兄さんに隠し事をされるのが、一番嫌だって。兄さんが苦しい思いをしているのに、それを知らずにいるなんて僕には耐えられない。だって僕たちは、この世界でたった二人の家族じゃないか」

だから、大丈夫。と雪男は言う。
どんなことでも、受け止めるから、と。

その強い言葉に、俺はゆっくりと瞼を開ける。真っ直ぐにこちらを見つめる、その瞳と合って。

「兄さんは、兄さんだよ」

そう言って、兄さん、とまた、俺をそう呼ぶから。

話したいことも、話さなきゃならないことも、たくさんあって。
虚無界ゲヘナの王だから、とか。
悪魔だから、とか。
そんなことは抜きにして、俺は今、ただ一人の『奥村燐』として。

「……あぁ。そうだな」

合わせた額のまま、小さく頷いた。
そして、世界で一番近い距離にいる双子の弟を、真っ直ぐに見つめて口を開く。

「……―――、話したい、ことがあるんだ」






「……―――、ええのか?入らんでも」
『それを言うなら、お前たちもじゃないのか』

淡々とそう返すアスタロトに、勝呂は内心で素直じゃないな、と苦笑を漏らす。今、この目の前の悪魔は、自分がどんな顔をしているのか、ちゃんと理解しているのだろうか、と思う。
切なさと、己の心を押し殺しきれていない、そんな顔をして。
随分と分かりやすい悪魔だ、と思う。それこそ、悪魔というよりも人間のような表情を浮かべるこの男は、どことなく燐に似ているような気がした。何がどう、というわけではないのだけれど、多分、纏う雰囲気が似ているのだ。
つまり、放ってはおけない、ということで。

「お前、奥村のこと、好きなんやろ」
『……―――』
「まぁ、あの弟に挑もう思うんやったら、並大抵のことでは無理やろうなぁ……」

しみじみと、勝呂は思う。かつての自分が、そうだったからだ。
そう、まだ燐と同じ塾生だったあの頃、勝呂は燐のことが好きだった。いや、もしかしたら、今でも好きなのかもしれない。
衝突してばかりで、最初は気に食わないと思っていた相手のはずだった。だけど、自分を犠牲にして他人を助けたり、何もかも自分一人で抱えてしまうその性格が、どんどんいじらしく思えてきて、気になって、目で追い始めて、その無邪気な笑顔に魅せられるようになって、ようやく、勝呂は自分の抱える感情に気づいた。
自分は、同級生で同性で憎むべきサタンの息子が、すきなのだと。

それを知って、自分でも愕然とした。どうして、と。だけど同時に、妙に納得もして。
悩まなかったと言えば、嘘になる。だけど、自分の気持ちはどうしようもなかった。
自分は燐が好きだ、と改めて思う頃になって、彼の隣にいる弟の存在に気づいた。彼の弟は、彼にとってとても重要な立ち位置にいて、それはただ双子の弟だから、というだけではないのだと、気づいたのだ。
弟に向ける彼の笑顔が、そして、弟が彼に向ける仕草や表情が、何よりも物語っていて。
勝呂は、そこで一度諦めてしまった。彼のことを想うのを、一歩引いてしまった。
だから、自分はどう足掻いてもあの弟には勝てないのだ。一度引いてしまった手を今更伸ばしたところで、負けは確定してしまっているから。
それに気づいたのは、燐が虚無界ゲヘナに行ってしまった後のことだった。彼が消えた後の弟のあの姿を見て、自分はあの弟には勝てないのだと、実感してしまった。

だから自分はこの恋を、心に閉まって枯らすと決めたのだ。ゆっくりと、時間をかけて。
その痛みはまだ続いているけれど、それでも、彼が幸せなら、と想うほどには、昇華できているのだと最近では想うから。
だから、勝呂には分かるのだ。今の、アスタロトの気持ちが。

『そんなことは、分かっている。……、それでも』

アスタロトは目を細めて笑う。初めて見たこの悪魔の笑みは、人間のように温かみのあるソレで。

あぁ、自分はこの先に続く言葉を知っている。
勝呂も、そうやな、と頷いて。

『それでも、俺はあの人を守ると決めたんだ。……あの人が、すきだから』

たとえ、この想いが届かなくても。
一番近い距離に、居られなくても。

それでもその笑顔が、何よりも大事だから、守るのだ、と。


自分と同じ気持ちを告げる悪魔を、勝呂は、やっぱり人間臭い悪魔やな、と笑った。






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