こどもが眠ったあとで 2







翌日。俺は重たい足取りで会社へと向かった。行きたくない。死ぬほど。かといって、会社の同僚と別れたので会社に行きたくないとタダをこねるわけにもいかず。それに、同じ会社の同じ課に勤めている以上、顔を合わせないわけにはいかない。変に意識しても、周りが変に思うだけだ。
平静を装って、近藤さんの机の前を通り過ぎる。昨日は引き止めるような素振りを見せたが、彼なりに決着を着けたのか、前を通っても以前のようにちょっかいをかけてくることはなかった。
それにホッとしつつも、どこか寂しいと思う自分がいる。だが、正直に言えばあの時のような怒りはなく、あぁ、こうやって忘れていくんだろうか、なんてことを思った。
別れを告げられたときは、この世の終りのような気分だったのに。自分の切り替えの早さに、内心で苦笑する。
その時、近藤さんが近づいてきて。

「土方君、この前の資料は持ってる?」
「あ、はい。確か倉庫の方に保管してたと思いますよ」

取ってきます、と言えば、付き合うよ、と微笑まれた。その笑みは、付き合っていた頃によく見せていたもので。
怪訝に思いつつも倉庫に向かえば、近藤さんは後から入ってくると倉庫の扉の鍵を閉めた。そこでようやく、資料というのは建前で、俺と二人きりになるためだったということに気付く。
近藤さんはゆっくりと俺に近づいて、トシ、と俺を呼ぶ。

「今夜、二人で話がしたいんだが」
「俺はありません」
「まだ拗ねてるのか?昨日はいきなり言ってすまなかった。だが分かってくれ。俺の気持ちは変わってねぇんだ」

真っ直ぐに見つめてくる近藤さんを、俺はじっと見返した。
昨日、別れを告げたはずなのに、どうしてそんなことが言えるんだろう?確かに、近藤さんの瞳は真っ直ぐで、嘘を言っているようには見えない。だからこそ、俺はその神経が信じられなかった。

「好きなんだ、トシ。俺は本気だ」
「だったら、婚約を破棄しろよ。昨日も言ったが、俺は不倫をするつもりはねぇ」
「………」

言葉に詰まる近藤さんに、話にならないな、と思う。
昨日の口ぶりからしても、婚約を破棄することなどできないのは分かっている。俺だって本気で言ったわけじゃない。ただ、もう俺たちは別れたんだということを、近藤さんに理解して欲しかったのだ。
近藤さんは、思った通り困ったような顔をした。

「それは、その……」
「できねぇんだったら、それまでだ。俺たちはただの同僚に戻るだけだ」
「トシ、ダダを捏ねて俺を困らせないでくれ」
「ダダを捏ねてんのはアンタだろ」
「トシ、俺はお前がいないとダメなんだ。な?思い直してくれよ」

懇願する近藤さんに、俺は今度こそ呆れてしまい、彼に背を向けた。だがその前に、トシ、と呼ばれて、引き寄せられる。俺よりも大きなその腕に抱きしめられて、少しだけ心が揺らいだ。
もしかしたら、婚約は近藤さんの望むものじゃないのかもしれない。俺との別れを惜しんでいるのも、そのせいかもしれない。
だけどそれは、あまりにも身勝手だ。俺も、そして婚約相手も、ないがしろにしている。
俺は近藤さんの腕を強引に解いて、改めて彼に向き直った。

「近藤さん。アンタの気持ちは嬉しいが、結婚を決めたからには筋は通せ。俺は不倫をするつもりはねぇ。相手の女にも失礼だろ」

吐き捨てて、俺は足早に倉庫を去った。
俺の言葉をどう受け止めたのか、去って行く俺を近藤さんは引き止めなかった。
ぱたん、と閉じた扉。これが答えだ。そう思って、ぎゅっと唇を噛みしめた。





そんなことがありつつ、気が重い就業時間を終え、のろのろと帰宅した。帰り際、近藤さんの何か言いたげな視線を感じたけれど、無視した。
手短なコンビニに入って、手短な弁当を手に取る。レジの店員の愛想笑いを背後に、コンビニを出る。ガサガサとレジ袋が乾いた音を立てて、少し肌寒い街並みに響いた。
あともう少しでマンションが見える、という時、何やら騒がしい声が聞こえてきた。もう夜も更けているというのに誰だ、と目を凝らせば、反対側の道から携帯を片手に、あの隣人がやってきているのが見えた。
つい、目がいった。
男、坂田は、俺と同じくらいの身長ではあるが、俺よりも体格は良かった。体の線で分かる。風呂上りだろうか、昨日見たよりも天パは落ち着いていた。
あの髪の色もそうだが、坂田はとにかく目立った。何がどう、という訳ではないのだが、目を惹かれるのだ。
俺は坂田を見て、妙にそわそわと落ち着きのない気持ちになった。それを誤魔化すように、懐から煙草を取り出す。坂田は俺に気付いていないのか、電話口の向こうの相手に怒鳴っていた。

「あぁ?んなこと言われても書けねぇもんは書けねぇっつーの!何度も同じこと言わすんじゃねーよ。お母さんかお前は。………あーもう、はいはい分かってますぅ」

子供っぽく唇を尖らせた坂田に、どきり、とする。ちょ、待て、あんな小汚い天パ相手に「ドキ」ってなんだ。俺、目が可笑しくなったのか?自問自答して、少し混乱した。
坂田は徐々に近づいてくる。当然だ。同じマンションなんだから。しかしこの場合、挨拶をするべきなのだろうか。いや、でも今まで顔も合わせたことのない相手に、いきなりそんな慣れ慣れしくしていいものなのだろうか。いや、でも相手は電話中だ。ここは気を利かせたフリして素通りしよう。そう思ったものの、不意に顔を上げた坂田と目が合ってしまった。
赤い瞳が、ぱちり、と瞬き一つ。そして、電話に近づけていた唇が、二ィ、と楽しげに吊り上る。
その笑みに嫌な予感がして、俺は慌てて視線を逸らせて足早にマンションに入った。自室に入ってしまえばこっちのものだ。そう思って鞄を探り、あれ?と首を傾げる。
ない、のだ。部屋の鍵が。
え、ちょっと待て。なんで鍵がないんだ。
一瞬ひやりとしつつも、必死に記憶を探る。そういえば昼休みに、一度部屋の鍵をデスクに入れたんだった。失くしたわけじゃなかったことにホッとしつつも、さてどうしようかと途方にくれる。
こんなとき、近藤さんと付き合っていれば、泊めてと言えた。そう思って、首を横に振る。あんなに頑なに拒んでおいて、都合のいいときだけ頼るのはお門違いだ。
しょうがない。今日はどっかのビジネスホテルかカプセルホテルにでも泊まるか、と踵を返そうとして、丁度隣人の坂田がこちらに向かってくるところだった。
げ、と思っていると、男はさっきこちらに気づいていたにも関わらず、白々しくおっという顔をして。

「あれ?お前もしかして、とおくん?どうしたの、こんなとこで」

坂田は馴れ馴れしく声をかけてきた。おい、なんだよ「とおくん」って。
引き気味の俺の言いたいことを察したのか、坂田はニッと笑った。

「金時がお前のことそう呼んでたんだよ。つーか、自分の部屋の前で何やってんの?」
「別に、テメェには関係ねぇだろ」

ふい、と視線を逸らせて早々に立ち去ろうとすると、坂田に腕を掴まれた。

「ちょ、おい!何すんだ、離せ」
「まぁまぁ、いいじゃん。もしかしなくても、部屋の鍵ねぇんだろ?ウチに泊まっていけばいいいじゃん」
「はぁ?アンタ、何言って」
「いいからいいから。遠慮すんなって」

ぐいぐいと腕を引いて、坂田は強引に自分の部屋へと俺を連れこんだ。抵抗しようかと思ったが、夜も遅いし、騒ぐと近所迷惑になるだろうと大人しく従った。
坂田の部屋は、とても俺と同じ部屋とは思えないほど乱雑としていた。積み重なった新聞はタワーになっているし、ゴミ袋も入口に積み重なっている。それにムッと鼻につく煙草の匂い。俺も煙草を吸うので気にはならないが、とてもじゃないが子供がいる部屋とは思えない。
俺は眉根を寄せて、おい、と坂田を責めた。

「アンタ、こんな汚ねぇ部屋に子供置いておくなんて非常識すぎるだろ。少しは片付けろ」
「あー、まぁ、週一で掃除頼んでるから別にいいだろ」
「それに、こんな夜遅くに子供を置いて出かけんなよ」
「下のコンビニに行っただけだって。十分もかかんねーよ。鍵だってかけてんだし」

いくら俺が責めようが、坂田はどこ吹く風だ。ダメだ。話にならない。
俺は呆れつつ中に入ると、坂田はとりあえずの着替えを用意してくれた。シャツやネクタイ、そして下着。最初に持ってきたシャツもネクタイも下着でさえ、趣味を疑うような柄だったので抗議すると、しぶしぶというように違うものを持ってきた。
シンプルな白のシャツに目を通していると、坂田はそれやるよ、と言った。

「え、でもこれ、けっこういいブランドもんじゃねーの?俺、詳しくねぇけど、この名前くらいは知ってるし」
「えーあー、まぁ、そうだけど、別に着ないし。どうせ捨てるだけだから」

ぼりぼりと頭をかきつつ、坂田は何でもないようにそう言った。
気を利かせてくれているのか、本心なのか。全く読めないが、ただの隣人にここまでしてくれたのだし、俺は好意に甘えることにした。

「すまねぇ。恩に着る」




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