三月九日。7




俺は打ち合わせの後、ぶらりと散歩に出掛けた。このまま帰る気分でもなかったし、もしかしたら、とあの河原へと足を向けた。もしかしたら、土方に会えるかもしれない、と。
あの日と同じ、赤い夕日が沈む夕暮れ。暖かな、春の匂いを纏う空気が頬を撫でて、俺はゆっくりと目を閉じる。

うたが、聞こえた。
あの日と同じ、うたが。
それは俺の耳に残って、どこまでも伸びる。
瞼を閉じたまま、俺はそのうたになぞるように、口ずさむ。

『 三月の風に想いをのせて
  桜のつぼみは春へとつづきます 』

開いた瞼には、眩しいくらいの夕日が映るだけで。
あの日と同じ、寂しげな背中は現れなかった。
俺はそれに肩を落として、あぁ、と一つ息をつく。

いま、どこで何をしてる?
寂しい想いをしていないだろうか。
泣きそうになっていないだろうか。
声を押し殺して、傷ついていないだろうか。
確かめたい。この手で、お前の温度を。
抱きしめたい、この腕で。

この感情に、名前を付けるとするのなら、きっと。

恋、と呼ぶのではないだろうか。


俺は小さく笑って、ゆるりと歩き出す。
向かう先は、決まっていた。




土方の自宅は、町の少し外れたところにあった。
立派な門扉が構える奥で、これまた立派な屋敷が俺を威圧してくる。表札の「土方」の文字を見つめて、俺はぐっと手のひらを握り締める。
この場所で、土方は父親を目の前で亡くした。その場所に未だ住んでいるのは、苦痛なんじゃないだろうか、と。
俺は小さく息を吐いて、自分を落ち着かせる。そして、インターフォンへと手を伸ばした。
ピンポーンという高い音が響いた後、すぐに女の声で、「はい」という声が聞こえてきた。

「どちら様ですか?」
「あの、土方君のクラスメイトの坂田ですけど。土方君はいますか?」
「……あら、十四郎のお友達?」

俺が何者か分かると、女は声を明るくした。その変わりように、どことなく違和感を感じた。

「十四郎なら、今部屋にいるわよ。代わるから、ちょっと待ってね」
「あ、はい」

ガチャ、と切られて、俺は一息つく。どうも俺がイメージしていたのと違って、内心でどうなってんだ、と頭を抱えたくなった。
俺が悶々としていると、インターフォンが回復する様子を見せて。

「坂田君?十四郎、今手が離せないみたいで。リビングで待ってて欲しいみたいなの。大丈夫かしら?」
「!はい。大丈夫です」

俺が驚きつつも返事を返すと、女はどうぞ、と嬉しそうな声でそう言った。難なく家の中へ入れてしまって、想像していたのと違いすぎるんですけど!と内心で喚いていた。



家に入ると、すぐに一人の女が出迎えた。真っ黒な長髪を緩やかに揺らした、美人といえる顔立ち。すぐに土方の母親だと気づいた。どことなく、土方に似ているからだ。

「こんにちは、坂田君。十四郎の母です」
「あ、どうも。坂田です」

にこり、と美人が笑みを浮かべて俺を迎えて、ドキリとする。土方が笑うと、こんな感じなのだろうか、と余計な妄想を働かせてしまう。

「十四郎、すぐに終わるそうだから。こっちで待っててもらえる?」
「はい」

案内されたのは、広いリビングだ。座り心地の良さそうなソファーがコの字に並んでいて、全体的にシックな雰囲気をかもし出している。
どこか日本離れしたそれに俺は少々圧巻されてしまった。

「じゃあ、お茶でも淹れてくるわね。ゆっくりしていって」
「あ、ありがとうございます」

どこか上機嫌で土方母は去っていった。その背中を目で追いつつ、普通の母親だよな、と思う。
あの母親が、昔、『トシ』のプロデューサー兼マネージャーを勤めていたらしい。あの事件以来、音楽関係の仕事は辞めた、と辰馬は言っていたけど。
そして『トシ』もまた、同じように音楽界から引退した、と。母親が開いた記者会見で、そう発表したらしい。
つまり、母親が土方に音楽を辞めたのだ。
ということは、今から音楽の道に進む俺が、土方と接触するのを好ましく思うはずもない。そして音楽界でそれなりに地位を持っていたらしい母親なら、全力で俺と土方が接触するのを拒むはずだ。
だから、俺は敢えてここに来た。母親の様子を伺うために。
だけど、俺の予想を超えて、土方母は俺を好意的な態度で出迎えた。まさに、息子の友人を出迎える母親のように。

「まぁ、母親が何もないなら、いいんだけどなぁ」

だけど母親の電話を取った土方の様子が、あまりにもおかしかった。あれは、どういう意味なのだろう。それに沖田君の言葉も。
俺が首を傾げていると、土方母が戻ってきた。ふわりと香る紅茶の匂いに、俺は小さく頭を下げる。

「こんなものしかなくてごめんなさいね」

そういって俺の前に置かれたのは、おいしそうなクッキーの入ったバスケットだ。甘いものに目がない俺は、嬉々として手を伸ばした。
クッキーをもさもさと食べる俺を微笑みながら見ていた土方母は、俺の向かい側に座った。
怪訝に思って土方母を見ると、土方母はゆっくりと目を閉じた。何かに、思案するように。
そして。


「あの子のこと、知っているんでしょう?」


そう言った。
いきなりの確信に迫る質問に、ぐっとクッキーを喉に詰まらせそうになって、慌てて紅茶を飲んだ。俺の慌てぶりを見た彼女は、少し申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんなさい。いきなりこんなことを言って……。でも、どうしても確認しておきたかったの。……貴方から、音楽の可能性を感じたから」
「……」

さすが、敏腕と言われたプロデューサーだ。その人を見る眼は確かに健在らしい。

「それで、貴女は俺をどうしたいんですか」

何が聞きたいんだ、と真っ直ぐに土方母を見ると、彼女は少し眼を伏せて。

「貴方のことをどうこうしようとは思わないわ。あの子と仲良くしてくれるのであれば、そうしてあげて欲しい。あの子があんな風になってしまったのは、私の責任だから」
「……」
「あの事件の後。あの子、ショックで一時期記憶を失くしてしまってね」
「え?」

それは、初耳だ。新聞にも載っていないし、TVでも放送されていない。

「このまま、音楽の仕事を続けるのは無理だと思ったわ。あの子、父親が死んだのは自分のせいだと、今でも思い続けているのだから」
「……」
「だけど、あの子は続けたいと言ったわ。うたがどうしても好きだから、と。だけどあんな状態で、うたを続けるなんて無理だと。芸能界は、そんなに甘いところじゃないわ、と私はあの子を叱った。そして、無理やり、あの子をうたの世界から切り離した」

ふ、と土方母は自嘲気味に笑って。

「今でも、その選択は間違っていなかったと思っているわ。だけど、やり方を間違えてしまったのね。あの子は、それ以来、うたを歌うことをしなくなってしまった」

だから今のあの子は私の責任、と土方母はそう言う。

「何よりも歌うことが好きだったあの子が、歌わなくなって。私は嫌な予感がしたの。だからある日、あの子を誘ってカラオケに行ったのよ。そしたら……」

『俺はもう、歌わないから』

「ただ、そう言ったわ。……―――、その瞬間、私は、自分のしたことを後悔したわ。どうにかして、あの子を歌わせてあげたいと思った。だけどあの子は頑なで、私に対して壁を作ってしまった。当然よね。あの子からうたを奪った私が、今更うたを与えるなんて、おかしな話だもの」

土方母はそう言って、俺を真っ直ぐに見つめた。土方と全く同じ、真っ直ぐすぎる瞳で。

「だから、私のほうこそ貴方に聞きたいの。あの子のこと、貴方はどうしたいの?」
「……―――俺、は」

喉が、渇いていた。あまりにも、違いすぎる展開に。
土方の母親は、決して、土方に冷たくはなかった。逆に、土方のことを思いすぎるあまりに、土方とすれ違ってしまっている。
どうしたい、と聞かれて、俺は自問自答する。俺は……―――。

そこで、ふと、俺は思い出す。
あの、河原で歌っていた、土方のことを。

土方母の話では、土方は事件以来全くうたうことをしなかったらしい。だけど、俺は確かにこの眼で、耳で、聞いたのだ。
土方の、うたを。


『 溢れ出す光の粒が
  少しずつ朝を暖めます
  大きなあくびをした後に
  少し照れてるあなたの横で 』


そのうたを想い出して。
俺は、心に決める。

真っ直ぐに俺の答えを待つ、土方母に向かって。

「俺は、土方にもう一度、うたを歌わせてあげたい、です」


きっと今でもうたが好きで仕方ない、土方のために。



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