そして、夏    拾




「さぁて、と。形勢逆転、やな」

勝呂たちは、アンネルーゼを見下ろした。彼女は連続して召喚したせいか、動くことすらままならないようだ。地面に伏したまま、キッと勝呂たちを見上げていた。

「アンタたち、こんなことして、ただで済むと思わないでよ……っ。四大騎士のアタシの邪魔をしたんだ。それ相応の罰を……――!」
「残念やけど、アンタは俺らを罰することはできん」
「何……?」

どういうことだ、とアンネルーゼは甲高く喚いた。まるで、我がままを言う子どものようだ。そして勝呂は、そんなアンネルーゼを言い聞かせるように彼女の目の前にしゃがみこんで。

「アンタは今回、独断で動いとるんやろ?しかも上に内緒で八候王まで呼び出してしもうた。もしこのことが露見すれば、アンタの方こそ立場が危ういんちゃうか?だったら、ここはお互い知らぬ存ぜぬで通したほうが、得や思うんやけど?」
「っ、!」
「どうや?『悪魔憑き』アンネルーゼ」

ぐう、とアンネルーゼは言葉に詰まっていた。なるほど。彼女はそれなりの地位にはついているが、かといって無体を働けるほどの権力を持っているわけではない、ということか。

「……―――、フン。いいわ、アンタの言うとおりにしてあげる。今回は、ね。でも、アンタたちが誰の差し金かはだいたい予想が付いているわ。あまり調子に乗っていると、後で後悔させてやるんだから!」
「伝えとくわ」

アンネルーゼは吐き捨てて、よろよろと去って行った。ひょいと肩を竦めて見せた勝呂は、立ち上がって俺に向き直った。そして赤い線の引かれた頬に目をやって、眉根を寄せていた。

「上位王子ともあろうレヴィアタンが、俺らに助けられてたらわけないわ」
「それは嫌味か、祓魔師」
「そうや。少しくらい嫌味も言うたらんと、俺の気が治まらないんや。ったく、どいつもこいつも人使いが荒くて困るわ」
「ま、まぁまぁ、落ちついて、勝呂君。レヴィアタンさんだって、色々事情があるんだよ」
「杜山さん……」

杜山、と呼ばれた女が、勝呂を嗜める。柔らかな雰囲気を持つ彼女は、ねぇ、ニーちゃん、と隣にいる緑男に同意を求めていた。

『うん、しえみちゃんの言うとおり!』

うんうん、と頷く緑男。相当、この女に懐いているのだろう。彼の持つ雰囲気は、女と同じように柔らかい。俺がじっと緑男を見ていると、彼も俺の視線に気づいたのか、ぺこりと頭を下げた。彼女と同じくらいの図体の彼は、頭を上げるのも下げるのも大変そうだ。

『初めまして、レヴィアタン様。僕はしえみちゃんの使い魔をしています』
『あぁ、それは見れば分かる。今回はすまなかったな。おかげで助かった』
『いえ、そんなことは………。それに、お礼を言うなら僕じゃなくて、ウケ君とミケ君に言ってあげてください』

緑男は、もう一人の女が連れている二匹を差した。つられてそちらに目を向ければ、二匹は深く頭を垂れていた。

『まさか、このような場所で貴方様にお目にかかれるとは思いもしませんでした』
『我ら、貴方様のお力になれて、光栄に存じます』
『頭を上げてくれ。俺は、お前たちに助けられた。礼を言うのは俺の方だ』

すまない、と頭を下げれば、二匹はぶわっと全身の毛を逆立てて、とんでもございません!と慌てふためいていた。
わたわたと慌てる二匹を、女は驚いて見やっていた。

「ちょ、ウケ、ミケ、アンタたちどうしたのよ?そんなにわたわたしちゃって……」
『当たり前だ!レヴィアタン様からお礼のお言葉を頂くなど……!恐れ多いにもほどがある!』
「……へぇ、お前、本気で偉いんやな」

ウケの言葉に、勝呂が感心していた。

「偉い、というよりも、悪魔の階級は持っている力で決まるからな。もし、俺よりも強い悪魔が現れれば、俺の立場は下になる。ただそれだけだ」
「じゃあ、それは王も同じってこと?だったら、アイツだってその地位が無くなることもあるっていうことじゃないの?」
「いや………―――、若君は違う」

俺はそっと目を伏せた。

「若君、いや、青焔魔の力は別格だ。お前たちも知っているだろう?あの方の持つ焔は、悪魔でさえも燃え尽くす。そしてそれは、絶対を意味する。あの方は………―――、悪魔おれたちにとって、絶対的君主なんだ」

ゆえに、あの人の背負ったものの大きさも、絶対で。その背負ったものが、時にあの人を傷つけることを知っている。
だけど、あの人は笑うから。なんでもないと言いながら、それでも、笑うから。
それが切なくて、俺は時々、思うことがある。彼以上の力を持ったものが現れてくれたら、と。そしたら彼は『王』という存在から解き放たれて、今よりも自由にこの世界に居られるのに、と。
そんなありえないことを、時々思ってしまう。だけど本当にそうなってしまったら、俺はきっと複雑な心境になることも、理解していた。

まぁ、あの人の地位がなくなることなんか、ありえないのだけれど。

「………そんなら、奥村は一生、悪魔の王っちゅう立場から逃げられへんってことか」
「………」

答えずにいると、勝呂は深々とため息を吐いていた。誰もが、ただ黙っていた。沈黙が降りる。そんな中、がしがしと頭を掻いた勝呂が。

「だったら、俺らはそれを受け止めるしかないなぁ。ま、アイツが虚無界に行った時点で、その覚悟はできとったけどな」
「!」

さらりと寄越された言葉に、俺は絶句する。ぽかん、と呆気に取られていると、二人の女も同調するように、頷いていた。

「そ、そうだよね!燐は大事な仲間だもん!これからも、ずっと!」
「ほんっと、今更よ。そんなこと」

なんでもないことだと、彼らは言う。たとえあの方が悪魔の王であろうが、関係ないと。それはあまりにも自然に寄越された言葉で、それゆえに、彼らが嘘を付いているわけではないことを証明していた。
………あぁ、本当に。
若君が、この世界を愛しているわけだ。己を引き換えにしても、守りたいと思うはずだ。

俺はその想いが痛いくらいに分かって、一度だけ、瞼を閉じた。

「ん、で?こんな夜更けにお前はどこに行こうとしていたんや。……神木から話は聞いとる。奥村の傍におらんでええのか?」

避難するような勝呂の言葉に、しかし俺は首を横に振った。

「あぁ。大丈夫だ。若君は、あの人は、俺がいなくともしっかりご自分の役目を果たされるだろう。俺は少々野暮用があって、勝呂、お前を訪ねようと思っていたところだった」
「せやかて、奥村は今、」

記憶を失くしているんやろ、と勝呂は声を潜めた。他の奴らも、わずかながら顔をしかめている。それもそうだ。彼は、自分たちのことを覚えていないのだから。複雑な思いもあるだろう。
だが、俺はふん、と鼻で笑った。

「貴様たち、それでも若君の友人か。あの方が、そうやすやすと記憶を奪われるような方だとでも?」
「は?」

自慢げにそう胸を張れば、ぽかん、と呆気に取られた顔をされてしまった。それは勝呂だけでなく他の奴らも同様で、俺はすぐに眉根を寄せる。何か、可笑しなことを言っただろうか。

「?なんだ。俺は何か可笑しなことを言ったか」
「えっ、あ、や……その………、お前が話てんのは、奥村のこと、やろ?」
「当然だ」

他に誰がいる、と言えば、複雑な顔をされた。一体なんだっていうんだ。訳も分からずにいると、勝呂はハァっと大げさにため息を漏らした。

「すまん。お前の言葉を疑うわけやないけど……お前の話す奥村と俺らの知っている奥村が、ずいぶんと違っていてな。アイツ、物質界におったときは成績は褒められたもんやなかったし」

馬鹿やったし、と囁くように、そしてどこか遠くを見るような勝呂。その後ろで、神木という彼女も同じような顔をしていた。

「アイツ、九九も言えなかったのよ。信じられる?高校生にもなってよ?ほんっと、頭が弱いって言うレベルじゃなかったんだから」
「そ、それは違う、若君は頭が悪いわけじゃ……」

悪態を付く彼女に、俺は慌てて弁解した。
俺は知っていた。彼が何故、そんな状態になったのか。幼少のころから、彼の周りに味方は少なかった。育った教会ならともかく、幼稚園や学校となると味方など誰一人いなかった。もし彼の弟が一緒にいれば違っていたのだろう。だが弟は彼とは離れて暮らしていて、孤立無援となる学校には自然と足が遠のいていた。だから授業なんて、ほとんど聞いていないのだ。
俺はそんな彼を、ある事情でずっと見てきた。だからこそ分かる。彼が悪いわけじゃない、と。
そう言おうとした俺を、しかし彼女は頭を振って答えた。分かっている、と。

「アイツが馬鹿だけど馬鹿じゃないってことなんて分かってるわよ。ただ、アンタの話す『若君』と、私たちが知っている『奥村燐』があまりにも違いすぎて、戸惑っただけ」
「…………、―――」

俺は声を失くす。それは彼女の言葉が意外だったからという理由ではない。
彼らの言うあの人と、俺の言うあの方に差異があるのは当然だ。その全てを、俺は見てきた。
だが、なんだ?この、言いようのない不安は?
何か大切なことを、俺は見落としていないか……?ざわり、と『俺』の血が騒ぐ。
そのとき、それまで黙っていた四人目の男が、ゆっくりと顔を上げた。

「………―――、変わった」

ぽつり、と呟く。その声は先ほど詠唱を唱えていた声と同じで、彼がヘカトンケイルを呼んだのだと分かる。そしてその『声』に混じるそれに気づき、絶句する。だが納得もする。なるほど。だからか、と。

「何が変わったんや、宝」

呟きを聞いた勝呂が、間を入れず彼に聞いていた。だが、宝と呼ばれた彼は真っ直ぐに視線をどこかへと向けていた。

「変わった。王の焔が、泣いている」
「っ!」

彼はぼんやりと、しかし明確な言葉を呟く。そしてその内容に、ハッと体を強張らせる。
王の、焔。
その言葉が示すのは、たった一人。

「わか、ぎみ………!」




夜。暗い闇を駆けながら、それまで掛けていた電話を切り、少し息をつく。
信頼のおける人材には電話をした。あとは、彼らが何とかしてくれるだろう。自分は、あの人が捕えられているであろう場所まで、たどり着くだけだ。

「………―――兄さん」

ぽつり、と呟く。ぎり、と奥歯を噛みしめると、持っていた携帯を固く握りしめた。
案の定、だ。案の定、僕を厄介払いしたうえで、兄さんに手を出してきた。そのことが苛立たしく、僕の胸をどうしようもない感情が過ぎた。
兄さんは、この世界が好きだ。この世界を守るために、ひとり、悪魔の王として虚無界へと向かった人だ。それなのに、この世界が兄さんに向ける仕打ちはなんだ?

「兄さん、」

ごめん。と口の中で呟く。声には出せなかった。
例えこの世界が兄さんにとって優しくなくても。
例え悪魔の世界の方が、兄さんにとって優しかったとしても。
僕は兄さんを、離せない。

我儘だっていうのは、分かっている。『弟』の僕を、兄さんが放っておけないのも分かっている。
分かっていて、それを利用している。どこにも行かないように、自分の傍にいて欲しいと、その手をいつまでも握りしめているのは僕だ。
だけど、この気持ちだけは、譲れない。

「………、兄さん」

ごめん、と。
すきだ、という言葉は、僕の中で同じように溶けた。

ぐ、と再び唇を噛んだそのとき、す、と背後で気配が動いた。誰だ、と身を固くした僕は、覚えのある気配にわずかに肩の力を抜いた。そして相手もそんな僕に気付いたのか、苦笑していた。

「……―――すみません、無理を言ってしまって。蜘蛛を探るためとはいえ、まさか君の力を借りることになるだなんて」
「いえいえ、気にせんといて下さい。僕だって、先生や奥村君の為にできることをしたいんですから」
「ですが、これがばれたら君の立場も危うくなるでしょう?」
「それは、バレなければええ話です。そうでしょう?奥村先生」
「…………貴方も、言うようになりましたね、三輪君」
「あはは。先生のお兄さんの影響でしょうねぇ」

のんびりとした会話をしながらも、僕も苦笑を漏らす。確かに、バレなければいい、だなんて、出会ったころの彼ならば言うことはなかっただろう。明らかに、誰かさんの影響だ。
全く、兄さんは色んな意味で目が離せない。僕は笑う。

「先生。これは牢へと続く見取り図です。すんません、僕はここまでしか」
「いえ、これだけでも十分です。ありがとうございます」

背後の三輪君は、僕の手に小さな紙を握らせた。僕は振り返ることなくそれを受け取って、小さく礼を言った。すると背後にいた彼は、わずかに逡巡した様子を見せたあと。

「先生。僕たちは三年前、何もできませんでした」

その声は静かで、しかし、懺悔のようにも聞こえた。

「僕たちは、心のどこかで思っていたのかもしれません。奥村君なら、青焔魔を倒せるって。だけど奥村君がこの世界を守るために虚無界に行くと決めたとき、僕たちは自分の無力に気づかされました。だから、今の僕たちの地位がある」
「………三輪君」
「だから、奥村先生は何も心配せぇへんで下さい。僕らは僕らで、ちゃんと自分も周囲も守れるくらい、強くなりましたから」

僕はその言葉を、小さな驚きとともに聞いていた。
兄さんと同じ塾生の中でも、小心者だった彼。怯えた顔をすることが多かった彼が、今は違った顔をしている。それは振り返って顔を見なくても、声を聴いただけで分かった。
たぶん、あのメンバーの中で三輪君が、一番化けた。僕はそう思う。

「先生。奥村君を、お願いします」
「……はい。必ず」

僕は渡された紙を握りしめて、走りだした。



兄さん。
どうか。どうか無事で。
例え兄さんに、僕との記憶がなくても、必ず、助けてみせるから。

祈るように、僕は足を速めた。
そしてようやく、兄さんが捕えられているであろうその場所にたどり着いて、僕は息を潜めた。見張りがいるかもしれない。僕は気配を窺った、その時。

「…………―――、俺は、雪男がすきだよ。すきだから、もう、ダメなんだ」

苦しげなその声が、やけにその場に響いた。




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