そして、夏    玖




彼女、アンネルーゼは木々の間を跳ねるように飛び回った。その姿は人間を遥かに超えた動きで、俺は内心で嘆息する。
悪魔の力をここまで己のモノにできるとは。……厄介だな。
とはいえ、いくら人間離れした動きをしようと、俺の目にははっきりとその姿が見えている。悪魔の力を使役しようが、所詮は人間だからだ。

「『お兄さん、イイね!その目は好きだよ』」

きゃはは!と甲高く笑って、アンネルーゼは俺に向かって飛び掛ってきた。その鋭い爪の生えた両腕を捕らえ、細い体を地面に叩きつけようとした。
だが、それに気づいた彼女は、一瞬早く俺へと手を伸ばし、鋭い爪が俺の頬を切り裂いた。

「っ」
「『速さなら、お兄さんには負けないよ!』」

じわり、と頬に熱が帯びる。痛みを訴えるそこを、俺は乱暴に拭った。完全体のときほどではないにしろ、傷の治りは通常の人間よりも早い。この頬の傷も、数分後には治るだろう。
しかしこのまま傷を負い続ければ、その分血を流すことになる。それだけは、避けなければ。
俺は真っ直ぐにアンネルーゼを睨みつける。彼女はニコニコと満面の笑顔を浮かべて、心底楽しそうだった。

「随分と、楽しそうだな。お前」
「『もっちろん!アタシ、戦いだーいすきだもん』」
「は。祓魔師のくせに」
「『むっ。なによぉ、お兄さんに文句言われる筋合いはないよぉ。お兄さんだって、戦うのが好きなくせにぃ』」
「否定はしない。俺は、悪魔だからな」

淡々と答えると、アンネルーゼはきょとん、としたあとに、きゃはは!と腹を抱えて笑い始めた。

「『お兄さん、おっかしいね。あの可愛くて甘ちゃんな王様の家来だから、戦うのは嫌いだって言うかと思ったのに』」
「…………、貴様」

ざわ、と体内の血が騒ぐ。俺の中に流れる悪魔の血が、沸騰するように熱い。ぐう、と喉の奥が鳴る。怒りで目の前が真っ赤に染まった。

『あの方の………若君のことを何も知らない小娘が、あの方を悪く言うことは許さない』
「『っ、ふぅん?すごい殺気だね、お兄さん。さっきとは全然違う。………イイね。イイよ兄さん!』」

アンネルーゼは笑いながら、地面を蹴った。そのまま、木の枝へと飛び移り、また別の木へと跳ねる。俺はその姿を、黙って見つめた。

「『いくよ、お兄さん!』」

きゃはは、と笑った彼女は、まるで弾丸のようにこちらに跳ねた。その腕が再び俺の頭へと迫り………。
しかし今度こそ、俺はその腕を掴んだ。

「『っ、へっ?』」

呆気にとられる彼女の顔が、一瞬視界に過ぎって。

『CHECK MATE だ』

俺は細い腕ごと、思いっきり地面に叩きつけた。ゴッという鈍い音が響く。

「『ぁがッ!』」

悲鳴が、彼女の口から吐き出される。衝撃で息ができないのか、忙しく口を開閉させていた。
俺はただ、その姿を見下ろして。

『人間ごときが、この上位王子である俺に勝てるとでも思ったのか』

愚かな、と呟けば、衝撃が収まったのか、彼女は小さく笑っていた。

「『あ、はは………、分かってないのは……お兄さん、だよ……。アタシが、何の準備もなく……アンタと対峙したと、思う?』」
「何?」
「『アタシの名の、本当の恐ろしさ、思い知らせてあげる……!』」

カッ、と目を見開いた彼女は、ダン!と拳を地面に叩きつけた。その、瞬間。バキィ!と地面に亀裂が走る。彼女の拳を中心に。
そのさまを見て、俺はハッと目を疑った。
この力は………!


「『………アタシに手を貸せ!地の王、アマイモン!』」


そして、彼女の叫びと共に、地の割れ目から見覚えのある緑色が現れた。どんよりとした眼光、何を考えているの分かりづらい無表情、そして特徴のある髪型。
俺はその姿に、ギリッと奥歯を噛み締めた。そして相手も俺に気づいたのか、あっと目を見開いて。

『お久しぶりです、兄上。また物質界にいらっしゃったのですか』
「………アマイモン、何故、召喚に応じた。答えろ」
『何故と言われましても。そういう契約ですので』
「………っ」

ぐっと手のひらを握りしめる。アマイモンは飄々とした態度で、何を当然、と言わんばかりだ。
……確かに、アマイモンの言葉は正しい。通常、人間と悪魔は対立関係にある。だが、時として人間に力を貸し、共存することもある。お互いの利害が一致すれば、在り得ないことではない。その際には必ず契約を交わし、お互いに契約の解除をしない限り、人間は対価を払い、悪魔はどんなものでも応じなければならない。
それが人と悪魔の関係であり、その関係によって均衡を保たれていることを知っている。知っているが、それが今、仇になろうとは。
くそ、と内心で舌打ちすれば、地に這っていたアンネルーゼは狂ったように笑っていた。

「『きゃはは!さぁ、『地の王』アマイモンよ!契約に従い、その悪魔を討ちなさい!』」
『ボクに命令しないで欲しいなぁ。でも、ま、いいや。こんなことがない限り、兄上と戦うなんてこと、ないからなぁ』

無表情のまま、アマイモンが跳躍する。俺はとっさに右へと体を捻らせる。瞬間、緑色の残影を引いて、俺が立っていた地面が裂けた。飛び散る砂と、その向こうでこちらを見据えるアマイモンと、目が、合う。

「っ、くそ!」
『だめですよ、兄上』

囁きが、スローモーションで聞こえて。

『完全体にならない限り、兄上はボクには勝てません』

次の、瞬間。
アマイモンの拳が、目の前にあった。やられる。そう思った。
だが。

『オン バサラ・ギニ・ハラ ネンハタナ・ソワカ』

被申護身の印

カッ、と陣が出現し、アマイモンの拳が弾かれた。後方に跳躍したアマイモンは、弾かれた己の拳を見て不思議そうな顔をしていた。シュウ、と煙が上がり、火傷のようになっていた。
俺は消えていく陣を見て、ハッと目を見開く。

「っ、これ、は……―――」
「………なんや、えらいことになっとるやないか。上位王子、レヴィアタン」
「!」

声のした方へと視線を向けて、絶句する。
そこにいたのは、四人の人間。皆、黒い正十字騎士団の制服に身を包み、凛とその場に立っていた。
その中心にいたのは彼。この前の『青い夜の子』の騒ぎのときに僅かだが協力した人物、勝呂が印を組んでこちらを真っ直ぐに見据えていた。

「お前が何や苦戦してるいう連絡を受けて来たんやけど、まさかほんまに苦戦してるやなんてなぁ。意外やったわ」
「何、………連絡………?」
「そうや。ま、詳しい話は、後や。今は……―――」
『ボクを、無視しないで欲しいな』

勝呂が何かを言いかけた直後、アマイモンが俺に向かって走ってきた。ひゅ、と風が吹き荒れる。右へ避ければ、勢いを利用したアマイモンの左足が迫る。だが、その足は伸びてきた蔦によって封じられた。

『お?』
「にーちゃん、そのままだよ!」
『うん!しえみちゃん!』

四人の内の一人、小柄な女が緑男を従えていた。蔦は、その緑男から伸びている。なるほど、彼女は召喚士か。俺は飛び退きながら納得する。

『邪魔だなぁ』
「!」

アマイモンは己を拘束する蔦に爪を立てた。バキィ、と派手な音をたてて、蔦が剥がれていく。これでは、数秒と持たないだろう。どうするつもりなんだ、と彼らを見やって、印を組む勝呂と目が合った。同時に、彼の横に控えていた一人、昼間に出会った白狐を従えていた彼女が、素早く印を組む。

『ふるえゆらゆらとふるえ―――、』

靈の祓

白狐二体が、白い線となってアマイモンを取り囲む。蔦に気をとられていたアマイモンは、己の周りを飛び回る白狐を鬱陶しそうに見やった。
確かに、これではアマイモンは身動きが取れないだろう。だが、拘束はできたところで、この場をどうにかしなければ意味が無い。『八候王』の一人を相手に、一体どう戦うつもりなのか。
俺はとにかく勝呂たちの元へと向かおうとして、微かに声が耳に届いた。小さくて聞き取り辛いが、何か、詠唱のような……。

『 彼はわたしたちの仲間に加えられ、この努めを授かった者であった。
彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。 そして、この事はエルサレムの全住民の知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった 』

今度はハッキリと、声が聞こえた。なんだ、と足を止めたその直後。

『 悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。   この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである 』

 使徒行伝

がばり、と。
地面が、口を開けた。

まさか。あれを、呼び出したというのか?
俺は額に汗が滲むのを感じた。だがこのままでは俺の身さえ危ないと察し、猛スピードでその場を後にする。内に流れる悪魔の血が騒ぎ、肌がビリビリと粟立つ。
背後で、大口を開けた地面から、巨大な腕がぬぅっと飛び出してきた。そしてその腕は身動きの取れないアマイモンを捕らえ、そして大穴へと引きずっていく。

『う、あああああ!』

アマイモンの悲鳴が穴へと消えて、そして、地面の大穴さえも消えてしまった。
後に残されたのは、何もない地面と俺たちだけ。
ざわ、と騒いでいた血が落ち着いていく。それを感じながら、一つ息を吐く。

「まさか、あれを呼び出せるなんて………」

信じられないが、間違いない。地面から伸びたあの腕は、見覚えがある。
その醜さゆえに、地下深くへと封じられたという、三人の兄弟。ヘカトンケイル、だ。
地下の門番として君臨する彼らを、詠唱のみで呼び出してみせた。そんなことは、ただの人間では無理だ。
だとしたら、一体どうやって。
疑問が顔に出ていたのだろう、勝呂がにやりと笑って。

「丁度ええとこに丁度ええもんがあったんで、利用させてもろたわ。さすが、四大騎士の血は違いますなぁ」
「!」

なるほど。そういうことか。
俺は倒れているアンネルーゼを見た。彼女は勝呂の言葉に、悔しげに唇を噛み締めていた。
つまり、勝呂たちはヘカトンケイルを呼び出すため、アンネルーゼの血を利用したのだ。

『アタシは、血を流しすぎた』

その言葉通り。彼女は自身の血を流しすぎたのだ。それこそ、己の身にケルベロスを召喚し、八候王であり『地の王』アマイモンを呼び、ヘカトンケイルさえ呼べるほどには。
恐ろしいのはその血を持つアンネルーゼか、はたまたそれを利用して見せた、勝呂か。

そして彼は、いや、彼らは淡々とアンネルーゼを見下ろした。



「さぁて、と。形勢逆転、やな」






BACK TOP NEXT