そして、秋    壱




「…………―――、俺は、雪男がすきだよ。すきだから、もう、ダメなんだ」


その言葉を聞いた時、僕の時間は確かに止まっていた。完全に消していたはずの気配を、表へ出してしまうほどには、きっと動揺していた。

「誰だ!」

目ざとく僕の気配に気づいたのか、安部が鋭い声で叫んだ。僕は内心の動揺を隠しながら、一つ息を吐いて二人の前へと姿を見せた。飛び込んで来た二人の体勢に眉根を寄せていると、兄さんの上にいる安部は驚きに目を見開いていた。鉄格子越しに、二人の視線が僕へと向けられる。

「お前さん………、一体、どうして……」

何故ここにいる、と言いたげな安部を無視する。今の僕には、兄さんしか見えていなかった。
兄さんは安部の下にいながら、僕を見て悲しそうな顔をしていた。僕が突然現れたことも、そして話を聞かれたことにも、何の動揺もしていないようだった。ただ静かに、僕を見返していた。

「兄さん……どうして………」
「………」
「記憶、……戻ったの……?」

兄さんは、答えない。ただ黙って、その青い瞳を伏せていた。
そう、昨日まで兄さんは記憶を失くしていたはずだった。ルシファーの手によって、自分が物質界で育ったことも、人間との間にできたハーフであることすら、忘れていたはずだ。
なのに、今の会話は、いや、今の僕を見る兄さんの瞳は、どう考えても僕の知る「兄さん」そのもので。
僕は安部の前だということも忘れて、ただただ、兄さんだけを見つめていた。
いつ記憶が、と。問いかけようとして、真っ直ぐにこちらを見る兄さんの瞳に、ハッと体を硬直させた。揺ぎ無い青の瞳は、言葉はなくとも兄さんの考えを僕に伝えていた。
………―――まさか。

「兄さん、まさか、最初から記憶なんて失くしてなかったの………?」
「…………―――」

肯定はなかったけれど、否定も、なかった。
そのことが、ずきりと胸に突き刺さる。

………兄さんが、僕に嘘をついた。
それは、もしかしたら何らかの考えがあってのことなのかもしれない。ルシファーを捕まえる為、ひいては教団内部にいる協力者をあぶりだすためかもしれない。
分かってる。頭では。脳は今の現状を理解している。………―――それでも。

兄さんに忘れられたと思ったときの、あの目の前が真っ暗になる衝撃。
世界の半分が、なくなったかのような喪失感。
目の前にいるのに、僕の手の届くところにいるのに、手を伸ばせないもどかしさ。

『なんで、人間がここにいるんだ?』
『オクムラユキオ?長げぇ名だな。んー……じゃあ、雪でいいや。よろしくな』
『それじゃあ、今とあんまし変わんねーじゃん。お前、いつっつも任務だー授業だーってほとんど部屋にいねーし』

全て、知っていて。
それでも、僕に黙っていた?記憶がないふりをしてまで?
兄さんは一体、何がしたいというのか。

「…………、随分、手の込んだことしてくれるね、兄さん」

自然、声が低くなった。
悲しい。悲しくて、同時に許せなかった。
嘘をつかれたことが、じゃない。そんなことで、今更こんなに怒りを覚えたりはしない。

ただ、兄さんが、全てを自分一人で負おうとしていることが、どうしても許せなかった。

僕達は、対等だと。そう、約束した。どちらかがどちらかの重荷になるような関係は、やめようと。
確かに、あの暑い夏の日、そう誓ったはずなのに。

「兄さんは、何も分かってないよ。兄さんのために、皆協力してくれようとしてる。それなのに、その手を兄さんは拒んでる。それは、みんなを傷つけることになるって、いつになれば気づいてくれるの。………兄さんは、いつだってそうだ。僕達のことなんて全然考えてない。自己犠牲も、たいがいにしなよ」

虚無界へと消えた三年前だってそうだ。皆で青焔魔を倒して、これでやっとって思った矢先。兄さんは勝手に決断して、勝手に虚無界へ行ってしまった。残された僕たちがどんな思いでいたのか、知りもしないで。

「………―――」
「何か言ったらどうなの、兄さん」

終始黙ったままの兄さんに、僕は苛立ちを露にした。いつもなら、苛立つ僕につられて、兄さんも怒鳴り返すのが常だった。そういうとこはホンッと双子だな、なんてシュラさんは呆れていたけど。
でも、兄さんが怒鳴るということは、僕の言葉に異があるからで。だから、僕はあえて兄さんの気に障る言い方をした。それで兄さんが怒り出すのを、待っていた。
違うよって、言って兄さん。いつもみたいに、なんだよ人の気も知らねぇで!って怒ってよ。
祈るように、僕は兄さんを見つめた。
だけど………―――。


「……―――言いたいことはそれだけか、雪男」


返ってきたのは、冷静な言葉だった。
僕はそれが一瞬、兄さんから放たれた言葉だと分からずに、ただ茫然としてしまった。そしてそれを見透かすように、兄さんは畳み掛ける。

「それだけなら、もう用は済んだだろ。もうお前は戻ったほうがいい。本当なら、お前は中期任務に出ていたはずだ。それがまだ日本支部にいるとバレれば、お前の立場は危うくなる。それは避けなきゃならねぇ」
「っ、兄さん!僕のことなんてどうでもいいんだよ!今は、兄さんのことを、」
「戻れ、雪男」

僕の言葉を遮って、兄さんは淡々とそう言った。そして、明らかな拒絶の色を宿した瞳が、こちらを射抜く。それは冷たい色をしていて、ぞくり、と背筋に冷たい何かが走るのを感じた。
本能で悟る。兄さんは今、本気だ。
言葉に詰まった僕をどう見たのか、兄さんは一つ息を吐いた。まるでだだをこねる子どもを相手にしているように。

「雪男。一つ言っておく。お前がどんなに立場が偉くなろうが、力を持とうが、所詮は人間だ。人は悪魔を祓う術を持ってはいるが、ただ、それだけのことなんだ。…………、お前と俺は、違うんだよ。雪男」
「兄さん……?何を、言って……?僕と兄さんが違う?そんなこと、あるわけない!僕達は双子なんだよ!同じ血を持つ、兄弟だ!」
「いいや。違うんだ。決定的に。…………―――お前じゃ、俺には勝てない」

違うんだ、と言う兄さんが、信じられなかった。
どんなに離れていても、兄さんと繋がっていると思っていた。それはどんなになっても変わらないと思っていた。
それなのに、その繋がりを、断ち切られた気がした。
戸惑う僕に、兄さんはただ淡々と、しかし、ほんの少し煩わしそうに。

「もう、分かっただろ。お前は今回のことから手を引け。元々俺は一人でカタを着けるつもりだった。そのために記憶を失くしたフリをしたし、お前を中期任務に着いてもらうよう、メフィストに手引きしてもらったんだ」
「な、んだって?フェレス卿が?兄さんは一体、何を……」
「知る必要はねぇよ。お前は、いらないって言ったんだ、雪男。俺には、お前とは違う、俺と同等の悪魔の力を持つ部下がいる。ソイツらはお前よりもよっぽど自由に動ける。お前は人間同士の地位や立場に縛られて使えねぇ。いいか。俺は、お前らとは違う。…………悪魔の王だ」

一方的に、尊大に告げられた言葉が、うまく脳に伝わらない。兄さんは、一体何を言っている?
兄さんは一人になるために記憶喪失のフリをして、僕を中期任務に出るよう仕向けて、そして。
僕は、いらないと言った。悪魔の方が使えると、言われた。兄さんが僕を、人間を、拒絶した。
信じられない。あの兄さんが、僕を、人間を、拒絶するはずがない。兄さんは、この世界を、人間を、心の底から愛していた。僕は知っている。兄さんが焦がれてやまなかったのは、人間の暖かさだということを。だからその暖かさを守るためなら、どんなことだってする。たとえ自分を犠牲にしても。

そこまで考えて、ハッと我に返る。
もしかして、と。

「………―――兄さん、何を、隠してるの」

何を、抱え込んでいるの。

僕が問うと、兄さんは固く口を閉じた。その姿に、僕は確信する。兄さんは、やっぱり何かを隠している。そしてそれを誤魔化すために、嘘をついている。

思えば、最初から何もかもおかしかった。
ルシファーと接触した後の兄さんの様子は、演技には見えなかった。記憶を失くしたフリをしたところで、普段の何気ない仕草や動作を誤魔化せるとは思えない。何より、リスクが高すぎる。ということは、兄さんは本当に、記憶を失くしていた。そしてそれを利用して、僕たちから離れようとした。

それは、一体何のために?

「答えて、兄さん」

答えるまで、僕はここから離れない。
そう言えば、兄さんは俯いてしまった。いつも痛いくらいに真っ直ぐ前を向いている兄さんが俯いていると、どうしても、落ち着かない気持ちになる。そしてそんな姿になっても口を閉ざす理由を考えると、嫌な予感がして仕方ない。
一体、何が兄さんを苦しめる?
僕はじっと動かない兄さんを促すように、もう一度、声を掛けようとして。


「そこまでだ。奥村雪男」


凛とした声が響く。しまった、と思った時には遅く、カツン、と足音を立てて、彼女が姿を現した。
紫色の髪。同色の冷たい瞳。顔色一つ変えない、人形のような無表情。

「言っただろう。ほどほどにしておけ、と。奥村燐は、悪魔であり、王だ、と」

四大騎士、聖母、マリア・イヴ・エルンスト。その人が。
「マリア様………」
「様はいらんと言ったはずだがな。まぁ、いい。それより、何故貴様がここにいる?……ここは、騎士団の中でも限られた者しか知らない独房のはずだが」
「………」
「答えない、か。妥当だな。貴様を誰が出引きしたなど、些細なことだ。問題は、今、この場所に、貴様がいるということだ」

淡々と、彼女は事実だけを述べていく。ゆっくりとこちらに歩いてきたかと思うと、ちらりと牢屋の中を見て。

「………―――、無様だな」

吐き捨てる。

「貴様が、数百年もの間我々騎士団を翻弄し続けた虚無界の王とは笑わせる」
「………」
「は、反論もなしか。当然だな。貴様は、ただの自己犠牲に酔った偽善者だ。悪魔のくせに、ずいぶんと人間らしいことをするじゃないか」
「ッ、マリア!」

僕はとっさに彼女を遮った。これ以上兄さんを傷つける言葉を、兄さんに聞かせるわけにはいかなかった。
兄さんは、体の傷に対しては無防備だ。すぐに治るから、というのもあるだろうが、体がいくら傷つこうが、平気な顔をしている。だが、それとは逆に、心の傷に対しては、ひどく敏感だ。些細な言葉に感動して涙を流し、そして、些細な言葉に傷つく。そんな兄さんを知っているから、僕はなおさら、彼女の言葉をこれ以上聞かせるわけにはいかなかった。だが。

「そういうお前も、しょせんは騎士団の飼い犬にすぎねぇだろ。大した力もねぇくせに、吠えることだけは一丁前だな」

冷たい声が、その場に響く。は、と兄さんを見れば、その青い瞳を苛烈に光らせて、こちらを、いや、マリアを睨みつけていた。その瞳には温度というものがなく、ぞっとするような冷たさがあった。
そんな目をする兄さんを、僕は初めて見た。だからだろうか。目の前の兄さんが、ひどく、別人に見えたのは。

「にいさ、」
「………、もう、いい」

ぽつり、と投げられた言葉は、暗く、冷たく、ボロボロになったように転がった。何、と思う間もなく、兄さんの身体が淡く青い光に包まれる。

青焔魔の、いろ

そしてそれは、徐々に大きく、強くなっていく。
まさか。

「もう、いい。面倒だ。もう………―――、疲れた。お前らに付き合うのも、合わせるのも」

まさか。

「俺は………―――、悪魔たちを総べる、王だ」

まさか。

「人間じゃ、ねぇんだよ」

まさか。

「だから、もう。……―――、いい」

止めだ、と兄さんが言う。その、瞬間。
パァン!と何かが割れる音が、響いて。眩しいくらいの青い焔が広がって、視界を焼いた。とっさに顔を覆ったその時、ドォン!という爆音。横殴りの爆風が、容赦なく身体に叩きつけられて、身体が吹き飛ぶ。ドッと壁に打ち当たって、息が止まる。上手く呼吸ができずに目を見開いたその先に、淡い青の光が映って。
鋭い牙。爪。そして、長く尖った耳。
おおよそこの世界では見かけない、金銀の刺繍が施された華美な青い上着を翻しながら、その場に悠然と立つ彼の人の名を呼ぶ。

「にい、さ………ん?」

暗転する意識の中、青く鮮烈に光る瞳だけが、最後まで僕を見ていたことだけは、分かった。
いつかの会話が、蘇る。

『なるほど。どうやら騎士団は、兄さんの力を甘く見ているようで。……言っておきますが、兄さんは自ら望んで、力を封じている。騎士団が施した封印を甘んじて受けていることを、お忘れなく』
『……へぇ、その気になりゃあ、その封印はいつでも解ける、と?』
『さて、それは兄さんに聞かなければ、なんとも』

………―――あぁ、本当に。
兄さんの力を甘く見ていたのは、僕の方だったのかもしれない。










男は様変わりした少年を見、倒れたまま動かない青年を見、きゅっと眉根を寄せた。

「…………、これで、良かったのかよ?」
「………―――」
「お前はそれで、満足なのかよ?」

ぽつり、と責めるように呟かれたその言葉に、当然だ、と頷くと、男は呆れたようにため息を吐いた。そして、少し乱暴とも思える仕草で少年の頭を撫でて。

「ンな顔してるくせに。………泣きたきゃ、泣けよ」

優しく撫でる手は、どこか懐かしい人を思わせて。
しかし少年は、首を横に振った。

涙は、もう十分に流したから、と。

そう言えば男は苦笑して、少年の肩を引き寄せた。ぐ、と己の胸に頭を押し当てて。

「涙なんざ、枯れるもんじゃねーんだよ。ほら、お兄さんの胸を貸してやるから。思う存分縋るといいさ」

茶化したように言う男に、どこがお兄さんだ、と小さく笑えば、ぽろりと頬に冷たい何かが伝った。それを、目をぱちくりさせて見やった少年は、あれ、と小さく零した。
後から後から、青い瞳を濡らすそれを見て、男は器用だな、なんて笑って。

「……俺は何も見てねぇからよ。今の内に、全部吐き出しとけ」

そう言って、ぽんぽんと少年の頭を小さく叩いた。
少年は。
固く、手のひらを握り締めて。

男の背に腕を回すことなく、ただただ男の胸に寄りかかって、男の服を濡らした。
声を、上げることもなく。ただただ、静かに。








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