そして、秋    弐




泣いているという祓魔師の言葉に、俺はギリギリと手のひらを握りしめる。今すぐにでも、彼のもとに行きたい。だが、それはできない。何故なら、彼自身に止められているからだ。

『これから何があったとしても、お前はそのままでいろよ』

彼が連れて行かれる前、俺にそう言った。人間に化けた俺に向かって。それはつまり、人間に化けたままでいろ、ということだ。上位王子である『蛟の王』レヴィアタンとして動くな、と彼は念を押していた。
その命を、俺は遂行しなければならない。先ほどのアンネルーゼの時にはやむを得ず力を使ったが、勝呂たちと合流した今、俺は悪魔の力を極力使ってはいけない。となれば自然と、俺の行動は制限される。
もどかしい。上位王子レヴィアタンだったなら、すぐにでも彼のもとに行けるというのに。
なぜ、こんな命令をしたのですか、若君。俺は、非力な夜羽じぶんが嫌で、今のレヴィアタンじぶんになったのに。

奥歯を強く噛み締める。ビリビリと殺気立つ俺に、勝呂たちもどこかそわそわと落ち着かない。
落ち着け。自分に言い聞かせる。すぐにでも動き出しそうな体を制御する。分かっているはずだ。あの人は、意味の無い命令はしない。それどころか、「命令」することすらあまりしたがらない人だ。彼に付き従う悪魔たちは、彼に命じられるのを望んでいる。だが、心優しい彼はそれを良しとしない。そのことを、俺は十分に知っているはずだ。

「レヴィアタン、お前………」

耐えるように拳を振るわせる俺に、勝呂は何かを言いかけた。だが、すぐに口を閉ざす。きっと、彼の元へ行かないのか、と聞きたかったのだろう。だが、俺の様子から何かを察して、聞かないでおいてくれたらしい。察しが良くて助かる。
俺は一度深く息を吐いて、己を落ち着かせた。そして改めて、勝呂に向き直る。

「貴様、若君の弟から何か聞いたか」
「え?」
「貴様たちをここに呼び寄せたのは、奥村雪男だろう?あの男は今何をしている?」
「なんや。お前は何も聞いとらんのか?奥村先生は今、奥村を助けに行っとるんや。そんで、ここで合流することになっとる」
「!なんだと?」

どういうことだ。
奥村雪男が若君を助けに行くのは分かるが、それでもし、騎士団に若君が逃げ出したことが知られれば、奥村雪男もそうだが若君の立場だって危うくなる。それが分からないわけではないだろう。あの弟は、兄である若君に対してはかなり慎重で、かつ、妥協しない。そこに関してだけは、俺はあの弟を評価している。
だとすれば、他に何か思惑があるのか。それとも。

じっと考え込んでいると、いきなり、ざわっと全身の血が沸騰するように熱く滾るのを感じた。何、と驚く俺を無視して、流れ込んでくる、凶暴で暴力的な思考。殺せ。壊せ。その声は、普段はナリを潜めている、俺の悪魔としての欲望だった。

どくん。

とっさに、胸元を押さえる。そうしなければ、衝動に身を任せて、この場にいる全員を殺してしまうかもしれないからだ。

ちょっと、大丈夫なの?
なんや、一体どうしたんや?!

意識の外で、彼らの動揺する声が聞こえる。あぁ、殺したい。違う。そうじゃない。俺は、むやみやたらと人を傷つけないと、誓ったはずだ。そうだ、あの人と、そう誓ったはずだ。

「ッ。だ、い、じょうぶ、だ」

何とか声だけでも絞り出す。途端に、衝動が少しずつ引いて行く。嫌な汗が全身から吹き出して気持ち悪いが、何度か深く息を吐けば、徐々に意識がクリアになっていく。良かった。治まったみたいだ。安心して顔をゆっくりと上げれば、心配そうに俺を見る彼らと目が合って。

「あ、あの、大丈夫、ですか?」
「………あぁ」

喉の奥に何かが詰まったような感触がして、俺はごくりと唾を呑む。大丈夫だ、と彼らを見れば、ホッと安心したように肩の力を抜いていた。

「すまない。……心配かけた」
「それはええけど、ほんまに大丈夫なんか?顔色悪いぞ」
「あぁ、大丈夫だ」

怪訝そうな勝呂に、きっぱりと答える。大丈夫だという言葉に、嘘はないからだ。
おそらく、レヴィアタンではなく夜羽の姿でいたおかげで、悪魔の衝動も抑えられたんだろう。レヴィアタンのままでいれば、きっとあの衝動を抑えられなかったに違いない。
良かった。あの人の、若君の大事な友人たちを、殺さずに済んだ……―――。

そこまで考えて…………―――、唐突に思い至った考えに、息を、止める。

まさか。

いや、間違いない。
突然の、悪魔としての活性化。そして若君の言葉。それらが示すことは、ただ、一つ。


「…………―――、王位召喚か……!」

マズイ、と思ったその直後。

「わっ、ど、どうしたのっ、ニーちゃんっ!」
「ウケっ、ミケっ、アンタたち、何を!」

聞こえてきた彼女たちの悲鳴に、そちらへと目を向ける。そして、思っていた通りの光景が広がっていて、くっと唇を噛んだ。
先ほどまで大人しくしていた手騎士たちの使い魔が、それぞれ正気を失くしたように暴れていた。緑男はそこらじゅうに蔦を伸ばし、縦横無断に木々や地面を破壊し、二匹の白狐はお互いの首に噛みつき、血を流していた。
使い魔たちの暴走に、従えているはずの彼女たちは動揺を示している。これではダメだと判断した俺は、すぐに声を上げる。

「契約書を破け!早く!」
「えっ、あ、っそうだ!」

彼女たちは俺の声にハッと我に返ると、それぞれ陣の書かれた紙を破く。同時に使い魔たちの姿が消え、ただ茫然とした彼女たちが取り残された。

「一体、なんなの?何が起きてるのよ………」

紙を破いた手騎士の一人、神木が呟く。その声は気丈そうな響きを持っていたが、小さく震えていた。その隣で、もう一人の手騎士も心配そうに己の破いた紙を見下ろしていて、俺は小さく息を吐く。

「貴様たちは、自分が悪魔を従えているというのを自覚しているのか」
「え?」
「確かに、使い魔は貴様たちに従っている。だが、それは契約の名の元に従っているにすぎない。強い精神を持って接しなければならないのは、ちゃんと知っているだろう?こんなことで動揺していては、手騎士として失格だ。…………悪魔は、己の欲望に忠実な生き物であることを、貴様たちはもっと知るべきだ」

声が、少し硬くなったのを自覚した。だが、こればかりはどうしようもなかった。
人間と、悪魔。その境界がひどく不鮮明になりはじめたのは、ひとえに、若君が生まれたときからだった。「青い夜の子」は実験の過程で生まれたものにすぎなかったが、若君は違う。悪魔の王の息子として、生まれた。人間で在りながら、悪魔の王の血を受け継いだ。そして人間として育てられ、悪魔として覚醒し、虚無界の王になった。
人間でもなく、悪魔でもない。しかし、どちらでもある存在。そんな彼と過ごしてきた彼らだからこそ、悪魔を一番身近に感じてきたのだろう。それゆえに、忘れがちになる事実。

悪魔は、悪魔で在るということを。

そこまで考えて、手のひらを握りしめる。

「だがまぁ、先ほどの使い魔たちの暴走には、貴様たちは無関係だ。貴様たちは、立派に悪魔を従えていた。それだけは、事実だ」

ただ。

「貴様たちの支配よりも強力な、しかも絶対的な支配が、現れただけだ」
「……!それって……」
「あぁ。そんなことができるのは、世界でただ一人」

そう。

……――――――若君だ
……――――――若君の召喚だ
……――――――若君がおいでになられたぞ

ざわ、ざわ、と周囲がにわかに騒ぎ出した。この学園に潜んでいる低級悪魔たちが、己の血の騒ぎに耐えきれず騒ぎ始めたのだ。
あの人の、若君の呼びかけに、応えたのだ。


「青い焔を纏う我らの王が、召喚されたんだ」


王位召喚。
それは、青焔魔にしか使えない術の一つだ。だが、彼の持つ様々な術の中でも、それほど大袈裟な術ではない。
ただ単純に、「青焔魔はここにいる」と悪魔たちに知らせる、というそれだけのものだ。主にこの術は式典等に使われ、そこで俺たちの王は誰かというのを再認識する。力を見せずとも悪魔たちを支配する術。それが、王位召喚だ。

だが、それは虚無界で使用した場合、だ。
この術を物質界、しかも、普段は力を抑えられている若君が使えばどうなるのか。

抑制された力は、いつだって外へと解放されたがっている。悪魔であるなら、なおさら。そしてそれが強ければ強いほど、外へと与える影響も強い。
俺が、あの人の王位召喚に引きずられそうになったように。
おそらく他の悪魔たちも、少なからず影響を受けているに違いない。だが、この学園には低級の悪魔しか入れない結界がある。影響を受けたとしても、そこまで被害はないだろう。
ただ、この王位召喚に一番影響されるのは、俺たち上位の悪魔と、人間と契約中の使い魔だ。
王位召喚は、支配する術だ。つまり、一番支配しなければならないのは、力を持った上位の悪魔であり、ゆえに、この術は上位の悪魔を従えるときにも発動させる場合がある。そして使い魔は、人間との契約中はその支配化にある。二つの支配がぶつかり、しかし、王位召喚による影響は強く、時折暴走することもある。……さきほどの緑男と白狐のように。
さらに、俺は元は人間の血を持っていた。最初から悪魔として育ったわけではない俺は、術からの支配にかなり影響される。他の上位王子や八候王よりも、さらに強く。

それを見越して、若君は俺に人間の姿である「夜羽」でいるよう、命令した。
しかし逆に言えば、若君はあの時点から、王位召喚を使うつもりだったというわけで。

「…………―――、若君」

俺は、あの人の決意を知る。
王位召喚を使えば、己ずと、力を制御している騎士団からの支配を解くことになる。力を抑えた状態では、王位召喚はできないからだ。しかしそれは、完全に騎士団に刃向うことを意味している。
だが、そうまでして王位召喚をしなければならない理由は、考えなくても分かった。
悪魔に対する絶対的支配。そう、「悪魔」なら誰もが頭を垂れる術。それがたとえ、どんなにうまく隠れていたとしても。悪魔で在る限り、この支配から逃れることはできない。

「………、本気、なんだな。…………、燐」

あのひとは、どこまでも、この世界を愛している。


だったら。

「俺は…………―――、守るだけだ」

この世界を愛するあのひとごと、愛すると決めたのだから。











『………―――、あぁ、美しい』

彼はぽつりと呟く。青い世界を臨んで、悠然と。

『しかし、この景色があの人間によるものというのは、いささか残念だな』

淡々とそう言った彼は、ゆるり、と口元を歪めてみせた。そして己に降りかかる重圧に対し、心地よさげに目を閉じ、あぁ、と小さく唸った。

『久しい感覚だな。………だが、やはり甘いな、あの人間は。本物の王の力は、この程度のものではない。人間などという劣等種の血が、神聖なあおを汚しているのが、まだ分からないのか』

嘲笑。そして、嫌悪。彼の目には、その色しか灯ってはいなかった。
どこまでも黒く、そして、どこまでも白い彼は。

『言ったでしょう?キミはいずれ、思い知ると。キミが犯した罪で、キミは本当の地獄を知る』

白は言う。どこまでも楽しげに。

『そして思い知れ。私の怒りを、嘆きを。どんな苦しみも痛みも、私が受けたものに比べれば生ぬるい』

黒は言う。どこまでも憎らしげに。

白と黒と。二つを携えた彼は、笑い、怒り、そして最後には。

『………―――、青焔魔様』

泣いた。









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