そして、秋    参




『ゆきお、体が治ったら、またいっしょにくらそうな!』

懐かしい、声がする。
泣き出しそうになるのを、唇を噛んで我慢して、笑った。その顔が、ずっと忘れられなかった。絶対だよって、絶対、一緒に暮らそうって、約束した。
その為に、強くなろうとした。約束を守れるくらい、強く。もう誰にも邪魔されないよう、強く。
それなのに。

『だから、もう。……―――、いい』

どうして、そんな顔をするの。
何もかも諦めたような、そんな、悲しい顔をするの。

『さよなら、だ』

いつかの、別れが蘇る。また、僕は繰り返すのか。あの、孤独と寂しさで息をすることさえ忘れそうな日々に、戻るのか。手を伸ばしたのに、届かない。隣半分が欠けたあの日々に戻るなんて、僕には耐えられない。

………―――、待って。

幼い僕が、必死に手を伸ばす。届けと願いながら。その小さな背中に、手を伸ばす。もっと声を上げたら、振り返ってくれるだろうか。あの、無邪気な笑顔で。早く来いよって言ってくれるだろうか。

…………―――、待って!

あと少し、手を伸ばせば届く。現在の僕が、手を伸ばす。声を上げれば、その背中はぴたりと歩くのを止めた。あ、ともう一度手を伸ばし、その肩に触れようとして。
瞬間。

『俺は……―――、悪魔たちを総べる、王だ』
触れようとした先から、青い焔が揺れる。僕たちの間から吹き出したそれは、ゆらりと揺れて、僕の行く手を阻む。どうして。焦る僕に、青い焔の向こうで、「兄さん」は、笑っていた。

幸せになれよ、雪男

兄さん」が、何か言っている。だけど青に阻まれて、よく聞こえない。どうして。胸の奥がひどくざわつく。このまま、行かせてはいけない。そう思うのに、青が邪魔をする。
兄さん」が、こちらに背を向けた。ダメだ。そっちに行ってはいけない。叫んでも、「兄さん」には届いていないようだった。僕はその背中に、届けと叫ぶ。

兄さん、行くな!僕を置いて行くなんて、そんなの許さない!」

かつての言葉が、口をついて出た。だけどやっぱりあの時のように、「兄さん」は振り返らなかった。そのまま、小さくなっていく背中。どうして。どうして僕を、置いていくの。
どうして………!
僕は激しい怒りのまま、唸るようにその名を呼ぶ。

「………―――兄さん…………!」

行くな、と再び手を伸ばした、その時。

「っ、うぉっとぉ、びっくりした!」

低い男の声に、ハ、と我に返る。一気に視界から情報が流れ込んでくる。崩れかけた天井から、月の光が差し込んで来ていた。僕は、倒れているのか。まだ頭はぼんやりとしていて、自分が今どこにいるのか、分からなかった。呆然と、伸ばした自分の手を、見つめる。その手には何も掴んではいなくて、ただただ何も無い空虚に向かって伸びていた。それを見て、僕はまた、何かを失くしたのだと、悟った。
ぱたり、と腕を下ろせば、大丈夫かぁ?なんて声が横から聞こえてきて、眉根を寄せる。混乱していた頭が、急激に冴えていく。何が起こったのか、そして、どうすべきなのか。鈍い音を立てていた思考回路が、一斉に動き始める。
僕はそのままの体勢で、隣に居るであろう、男の名を呼ぶ。

「………、安陪さん」
「はいよ。………随分と魘されてたみてぇだが、頭は鈍っちゃいねぇようだな」

雪ちゃん、と安陪は飄々と笑った。微かに、煙草の匂いがする。この匂いは、随分と昔、神父さんが吸っていたものと同じ物だ。でも確かこの煙草は、随分前に販売中止になったと、神父さんがぼやいていたような気がしたが、気のせいか。いや、そんなこと、今は気にしている場合じゃない。僕は一度目を閉じて、思考を戻す。

記憶の最後にあるのは、青い焔。別人のような風体の、兄さんの背中。
虚無界の王の、姿。

「………。あれから、どうなったんです?僕が、気絶してから」
「あー、まぁ、そりゃあ、てんやわんやの大騒ぎよ。それまで大人しくしてた虚無界の王が、制御装置ぶち壊していきなり大技ぶっ放しやがったんだからよ。それにつられて悪魔どもも騒ぎ出すわで、日本支部の連中は右に左に大忙しだ」
「それじゃあ、兄さんは」
「あぁ。聖母様の結界を掻い潜って逃げた。マリアの結界でも捕らえられねぇとなると、騎士団も相当な数の人員をこの日本支部に送り込むはずだ。だが、ま。それも無駄に終わるだろうさ」

安陪は言いながら、ピン、と短くなった煙草を弾いた。転がった煙草は、ただ煙だけを吐き続けている。吸い終わったのか、と思ったが、再び隣で煙草を吸う気配がして、呆れた。身体に好んで害を入れようなんて、僕はどうしても考えられない。
のんびりとした様子で煙を吐き出す安陪の気配を感じながら、ゆっくりと起き上がる。目の前には不自然に歪んだ牢屋の残骸があって、まるで獣が暴れたみたいな状態になっていた。獣。そう、獣だ。騎士団からすれば、檻の中に入れていた獣が逃げ出したのと同じだ。そこには一片の情などなく、動物を愛でる精神はあったとしても、反抗的な獣には厳しい罰と待遇が与えられる。
捕まれば、兄さんの命は、ない。僕はそれを、この冷たい独房の残骸で、再確認した。

「………。なるほど。状況は、分かりました。……一つ、質問をしてもいいですか?」
「ん?おぉ、いいぞ」

だとしたら。
僕の取る行動は、ただ、一つ。

「日本支部、いや、騎士団が総出で対応に当たっているこの事態に、何故貴方はここにいるのです?…………四大騎士、安陪野洲郁」

隣を見れば、口元に手をやって煙草を吸っている安陪の姿がある。僕がその顔をじっと見上げると、煙を吐き出した彼は楽しげに喉を鳴らした。

「く、くく。ほんっと、お前ら双子は退屈させないな。藤本の野郎に似すぎて、俺は将来が心配だぜ」
「質問に答えて下さい」
「おっとそうだったな。んー、なんで四大騎士である俺が、この緊急時にのんびり煙草を吸っているかっていうと……………――――それは、」
「それは?」
「こういうこと、だ」

ゆらり、と煙草の煙が揺れる。反射的に僕は懐へと手を伸ばし、それを安陪に向けていた。同時に、黒い銃口が、こちらにも向いている。
僕たちはお互いに銃を向けたまま、じっとお互いを見つめていた。僕は座っているが、安陪は立っている。もしこのまま銃撃戦となれば、僕が圧倒的に不利だ。
だが、僕も安陪も、互いの銃の安全装置は掛けたまま。これはただのデモンストレーションだと、お互いが分かっていた。

「雪ちゃん。俺はさ、頭いい奴は嫌いじゃない。………だが、察しが良すぎる奴は、面倒だ」
「僕は前置きが長い人間は好きじゃありません。さっさと本題に入って下さい」
「はは、そりゃそうだ。雪ちゃんには時間がない。こうしている間にも、虚無界の王を捕まえようと騎士団は躍起になってる。………お前さんの大事な大事なお兄ちゃんが殺されるまで、時間はそう長くない」
「………」

安陪は何もかも見透かしたように、飄々とした態度を崩さない。内心で、舌打ちする。
そうだ、僕は焦っている。冷静になろうと努力はしているが、焦りはそれ以上の速さで僕の理性を失くそうとする。本当なら、今すぐにでも駆け出したい。早く、兄さんの元へ行かなければ。そうでなければ、何もかも、手遅れになってしまう。
ギリ、と奥歯を噛み締める。銃を握る手に、力がこもる。そんな僕を、安陪はどこまでも笑っていた。

「雪ちゃん。お前さん、今幾つだ?」
「は?」
「年齢だよ、年齢。幾つだ?」
「…………今年で、二十一になります」

それが何だと、僕は苛立ちながら答える。すると安陪は、ピュウ、と口笛を吹いて。

「二十一。若いね。じゃあ、今は花の二十歳じゃねーか。いやぁ、そんなに若いとは思ってなかったぜ。雪ちゃん、年齢の割りに老けてるんじゃねーの?」
「………。今、そのことは関係ないでしょう」
「いやいや?若さは大事よ?俺も若い頃は色々やったしなぁ。………だけど、ま。雪ちゃんはまだ若すぎるな。………―――抱えてるもんが少ない」

唐突に。
僕の向けていた銃身が捕まれる。何、と思った瞬間、安陪は自分の額に僕の銃口を押し付けていた。近くなる距離。サングラス越しの鋭い眼光が、僕を射抜く。
僕が安全装置を外し、トリガーを引けば安陪は死ぬ。その距離に自ら詰めていながら、しかし、安陪はどこまでも強い瞳で僕を見ていた。

「いいか、奥村雪男。お前はまだ若い。今はまだ、抱えているもんは少ないだろうが、いずれ、その手には、腕には、大事なもんを大量に抱え込むことになる。こんなちっぽけなもん持つ余裕すらなくなるほどにな。だが、それは今じゃない」

静かな、しかし、強い声で、安陪は言う。

「分かるか、奥村雪男。お前と虚無界の王………奥村燐とじゃ、抱えてるもんの重さが違うってことだ」
「!」

息を、呑む。

「考えてもみろ。大勢の悪魔を従える王と、一介の祓魔師でしかないお前。抱えてるもんも、守らなきゃならねぇもんも、比じゃねぇ。お前はそれを、ちゃんと、理解してんのか?」
「そ、れは………」
「してねぇだろ。してねぇから、あんなことが言える」

『僕と兄さんが違う?そんなこと、あるわけない!僕達は双子なんだよ!同じ血を持つ、兄弟だ!』

反論しかけて、止める。自分の言葉がどれほど利己的なものか、分かったからだ。
兄さんと僕は、確かに双子の兄弟だ。だけど、同じ人間じゃない。同じ血は流れているが、どこまでいっても、他人なのだ。
僕は、愕然とする。僕はずっと、自分のことしか考えていなかったのだ。

一人は、嫌で。独りは、怖くて。それを失くすために、僕は兄さんに傍にいて欲しかった。兄さんがすきで、大事で、だから、傍にいるのが当然だと思っていた。
幼い頃は、どんなに寂しくても我慢できた。いつか一緒に暮らそうと。その約束だけを糧にして。
だけど再会して、僕は兄さんの温かさを知ってしまった。名を呼ばれることの愛しさも、触れることのできる暖かさも、全部、兄さんが僕に教えてくれた。そして知って、失くして、僕は独りの冷たさを知ってしまった。

あの頃に戻りたくない。独りは嫌だ。ただただその考えだけで、僕は兄さんに手を伸ばしていた。
僕はそのことを、分かっていたはずだった。自分でも、ちゃんと。だけど、本当の意味で僕は理解していなかったんだ。手を伸ばされた兄さんが、何を考えていたか、なんて。

本当に、その手を離したくないのなら。
本当に、兄さんに傍にいて欲しいのなら。

僕は……―――。




「………。覚悟は、できたか」

顔を上げた僕に、安陪は笑った。楽しげに。そして、どこか嬉しそうに目を細めて。
僕は無言でその目を見つめ返しながら、深く、ため息を吐く。

「……まさか貴方に説教させる日が来るとは思いませんでしたよ」
「素直じゃないね、雪ちゃん。お礼は可愛い笑顔で「ありがとっ☆」って言いながらほっぺにちゅ、で許してやるさ」
「ありがとうございます」

ガチリ、と銃の安全装置を外す。グッとトリガーに指を掛けると、安陪は慌てて銃身を放して素早く後退した。

「っ、おいおい、俺は銃弾ブチ込んで欲しいとは言ってねーぞ」
「お礼です。遠慮しないで下さい」
「いやいやいや、全力でご遠慮するわ」

ホールドアップする安陪に、僕は銃を下げる。ホッと肩の力を抜いた安陪は、再び懐に手を伸ばして煙草を吸い始めた。

「短時間で一体何本吸うつもりですか」
「おっ、もしかして心配してく、」
「服に匂いが付くので止めて下さい」
「…………ほんと、可愛げのない奴だよ、お前は」

ひょいと肩を竦めた安部は、隣に立てかけていた銃を背負った。なんだろう。最近よく、「可愛げがなくなった」や「藤本に似てきた」と言われることが増えた気がする。……気のせいか?内心で首を傾げていると、安部はそのまま歩き出そうとしたので、僕はその背中を呼び止めた。

「安陪さん、僕の質問に答えてないですよ。……どうして、僕が目を覚ますまで待っていたんですか」
「んー?その質問には、もうとっくに答えたつもりだったんだがなぁ。お前さんも、粗方の察しは付いてるんじゃねーの?」
「………理由が、ありません」

この男が僕に対し、ここまで世話を焼く理由が。

そう言えば、安陪は小さく肩を揺らした。背を向けたままで顔は見えなかったが、恐らく、笑っているのだろう。
理由ね、とぽつりと呟いた安陪は、そのまま一度言葉を切った。煙草を吸っているのか、一度口元に伸びた手が、だらりと落ちて。

「ただの、気まぐれだ」

ゆらり、と煙が揺れる。
安陪はそのまま、ゆっくりと僕から離れて行った。僕はその背中を、黙って見送った。ただ、ポツリと。

「神父さんに似ているのは、貴方の方ですよ。安陪さん」

それだけを、呟いて。




















煙草の煙が、揺れる。
吸い込んだ煙は苦く、身体にジンと染みた。
そういえば、この味を覚えたのはいつだっただろう。思い返してみて、顔をしかめる。そうだ、あの野郎だ。あの野郎が最初に煙草を吸い始めて、それで、その姿がカッコよく見えて、んで、真似をしたくなった。ただ、それだけのことだった。

「うっわ、ねぇわ。痛々しいわ」

うげ、と苦々しく唸る。若かったな、と思うし、単純だったと思う。それこそ、ついさっき別れた若者以上に。
だが、人間は変わる。それを成長と言うし、後退とも言う。果たして自分は、どっちに向かったのだろう。前か、後ろか。いや、もしかしたらもう随分と前から、歩みを止めているのかもしれない。
思い、苦笑。こんなことをツラツラ考えるのは、年を取った証拠だ。

「…………、ったく、これじゃ藤本の野郎のこと、言えねぇじゃねぇか」

子どもを育てるから、と第一線から退いた男。その力は本物で、騎士団の誰もが憧れていた。そんな男の、突然の隠居。誰もが納得していなかった。だが自分は、ひどく、奴らしい、と思ったのだ。
突き放すくせに、優しい。冷たいくせに、温かい。あの男は、そんな人間だった。
だから自分は、隠居するあの男を止めなかった。だが、そんなある時、突然、あの男が自分の元を訪れた。隠居して、確か、十年くらい経った頃だろうか。

男は開口一番、こう言った。自分にもしものことがあれば、息子たちのことを頼む、と。
当然、何で俺がと断った。子どもなんて面倒だしと言えば、男は、いざという時のために力を貸してくれればいい、と頭まで下げた。
あの男が、だ。
冷静沈着。時には冷酷な判断さえ厭わない男が、他人に向かって頭を下げる姿など、初めて見た。
意外だった。だが同時に、やはり、らしいな、と納得した。
だが、その時の自分は、男に約束はしなかった。気が向いたらな、と返すと、それでいい、と男は満足したようだった。

それが、あの男との最後の会話だった。

あれから随分と時間が経った。あの時の約束を未だに自分が覚えていたことに、自分でも驚きを隠せない。だが………―――、悪くない。

藤本の野郎も、こんな気分だったのか。

再び、苦笑。
のらりくらりと歩きながら、これで約束は果たしたぜ、と煙草を吸う。

煙が、ゆらり、と揺れた。







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