そして、秋    肆




逃げた。
どこまでも、逃げた。

逃げて、逃げて。がむしゃらに逃げる自分は、どこか獣じみていた。
後ろから、声が聞こえる。自分を殺そうとする誰かの声だ。その声に捕まってしまえば、処刑は免れない。

荒い息を吐き出して、一つ、目を閉じる。
………あの声に従えば。
浮かんだ考えを、頭を振って掻き消す。いつから自分は、自殺志願者になったんだ。自嘲の笑みを浮かべる。

ふ、と息を吐き出す。それだけで、身体に蓄積された疲労が嘘のように引いて行く。慣れ親しんだ己の身体だ。普通の人間とは違うことなど、とうの昔に理解していた。
だから、大丈夫だ。
身体は熱を持っていた。内に宿る力が戻って来たのだ。腹の中で暴れまわる青を、ぐっと押さえ込む。まだだ。まだ、解放してはいけない。
まだ、大丈夫だ。
心はどこか、冷え切っていた。理由は分かっている。自分は、とても大切なものを、失くしたのだ。だけど、その大切なものを捨ててしまってでも、守らなきゃならないものがある。
我がままだと、それは己のエゴだと、分かっていたとしても、それでも。
それでも、捨てられないから。

「…………、ったく、ほんと俺は、どうしようもねぇ馬鹿だな」

だろ、ジジイ。
見上げた空は黒く、星は見えない。だが、脳裏に浮かぶあの人は、笑っていた。
だったら、大丈夫だ。
一つ笑って、止めていた足を動かした。

………―――足掻け、燐!

誰かの叫ぶ声に、ははっと声を上げて笑いながら。

「足掻いてやるよ!」

青を纏う王は、夜を跳ねた。






気配がした。青い焔の気配だ。まっすぐにこちらに向かっている。俺はすぐさま夜羽からレヴィアタンへと姿を変化させ、その場に膝間づいた。他の祓魔師の連中は、俺の一連の動作に怪訝そうな顔をしていたが、周囲を漂っていた魑魅魍魎どもが騒ぐのを感じて、何が来るのかと構えている。
俺はただじっと、その人が現れるのを待った。近い。もうすぐだ。ごくり、と唾を飲んだ、その時。

「お、くむら………?」

がさり、と木々が揺れ、魑魅魍魎が歓喜の声を上げる。その声に混じって、勝呂の戸惑ったような声が聞こえた。俺は身じろきすることなく、じっと、待つ。
じゃり、じゃり、と砂を踏む音が、こちらに近づいて来る。そして、俺の前に、立った。
俺は一つ、唾を飲む。そして、顔は上げないまま、口を開く。

『………――――、お待ちしておりました、若君』
「いけるか、『蛟の王』」
『はい、いつでも』
「上等。顔、上げろ」

彼の笑う気配がして、顔を上げる。思ったとおり、彼は笑っていた。
青い焔を、纏って。
俺はその姿に、目を細めた。物質界に来てからこの姿を見るのは、初めてだった。

『若君………』
「夜はいけねぇな。焔が目立つ」

軽く茶化すように言った彼に、俺は、そうですね、と答えた。すると彼は、真面目だな、と言う。いつも通りの会話。いつも通りの彼。だが、その青い瞳には、深い悲しみが見えた。
聞かずとも、それが誰を思ってのことなのか、分かっていた。彼を救いに行ったはずの彼の弟と一緒にいないところを見れば、自ずと。
彼が拒絶したのか、それともあの男が拒否したのか。それは分からない。だが、どちらにしろ、彼は選んだのだ。
…………―――生きることを。

そのことが、とても、………とても嬉しい。

僅かに笑んだ俺に、彼は少し照れくさそうな顔をしていた。俺が察したことに、気づいたらしい。彼は視線を逸らせて誤魔化すように、勢揃いしているかつての仲間たちを見た。一人、一人と顔を見た彼は、俺の横を通り過ぎると、じっとこちらを見ている彼らの前に、膝をついてみせた。
驚きに、目を見開く祓魔師たち。

「ちょ、奥村っ?」
「何して、」
「お前らには、本当に、申し訳ないことをしたと思ってる」

慌てて近づこうとした彼らを遮るように、彼は言った。

「俺は身勝手だ。俺のせいで、たくさんの人間や悪魔たちが今回のことに巻き込まれた。本当なら、ルシファーのことは俺が決着をつけなきゃいけなかったんだ。アイツの、大切なヤツを殺したのは、俺だから」

殺した、の言葉に、誰もが口を閉ざした。

「だから、ルシファーとは今夜、決着をつけようと思うんだ。俺にはもう………時間がない」
「決着、って、どうするつもりよ。それに、時間がない、って」
「今の俺は、どんな悪魔の気配も追える。もちろん、ルシファーの居場所も、もう分かってる。たぶんアイツも、俺が来ることが分かってるだろうし。会えば、俺たちは必ず殺しあう」
「………。お前は、勝てるんか」
「勝つさ。だけど………この責任は、取らなきゃならねぇ」

頭を垂れた彼の細い両肩にかかる、様々な重圧。悪魔の王として、彼が負ったもの。それらは彼を縛りつけ、雁字搦めにしている。俺はその鎖を見た気がして、唐突に、気づく。
俺が感じていた、違和感の正体。俺の知る彼と、彼らが知っている彼の、違い。
それは、自由、だった。

祓魔師としてこの場にいた頃の彼は、きっと、自由だった。奔放で、だけど、誰かに甘えることが許されていた。それは多分、仲間という存在と、たいせつな、………大切な存在が、この世界にいたからだ。
だけど、虚無界に行った彼には、自由はなかった。王として、悪魔として、彼に降りかかる重圧は大きい。そして、それによって様々な出来事があった。俺はそれをずっと、そう、彼が物質界にいる頃からずっと見てきた。だからこそ、違いに気付けた。
彼は、自由を失くした。だとしたら、代わりに得たものはなんだろう。権力? 力? しかしどれもが、彼を幸せにはできない。
しかし、彼はそれでも満足しているのだろう。だから、笑っていられる。

だから、誰も、気付けなかった。







「今回の件が片付いたら、俺は虚無界に戻る。………―――そして、こちらには、もう戻らない」






彼がなくしたものの、多さを。






「なに、勝手なこと、言うてんねや」

しばらくの間、沈黙をしていた彼らだったが、ぽつり、と勝呂がそう言った。ぶるぶると、握り締めた拳が震えている。低く唸るような声は、激情を殺しているのだろう。静かに、しかし、猛烈に、勝呂は怒っていた。

「俺らはな、奥村。お前に物質界にいて欲しいから、お前を連れ戻そうとしたんや。お前だってほんまは、物質界に居たいんと違うんか。………責任? そんなの、誰にもあらへん。それでもお前が責任を取らなあかん言うんやったら、それはお前だけやない。………青焔魔を倒したんは、俺らや。だったら、俺らの責任でもある」
「そっ、そうだよ。私たちみんなに責任があるんだよ。燐だけじゃない! 燐だけが背負う必要なんて、ないんだよ!」
「勝手に一人で考えてんじゃないわよ。私たちがなんの為にアンタを呼び戻そうとしたのか、分からなくなるじゃない」

勝呂に続いて、彼女たちもそれぞれに彼を引き止めようとしていた。しかし、彼は頭を垂れたまま、じっと動かない。
それを見下ろした勝呂は、苛立たしげにギリッと奥歯を噛み締めていた。

「ええ加減にせえよ。いつになったら、お前は気付くんや。……………俺らは、お前が虚無界の王だろうが悪魔だろうが関係ない。奥村、お前やから、こうして集まったんや。お前が、」
『そこまでにしろ、勝呂。いや、祓魔師』

俺は、さらに言い募ろうとした勝呂を止めた。何で止める、と言うようにこちらを睨む勝呂を、真っ直ぐに見返す。

『若君は、全て分かっておいでだ。それでも………、この世界には戻らないと、決めていらっしゃる』
「それは………!」
『祓魔師』

これ以上彼に、仲間を相手に頭を下げさせたくない。俺はその想いを込めて、勝呂を呼んだ。彼はそれを察して、ぐっと唇を噛んでいた。
誰もが黙り込んだのを感じて、彼はゆっくりと頭を上げて、立ち上がった。それぞれ厳しい顔をしているのを見て、困ったように笑っていた。

「何か、ごめんな。俺、やっぱり我がままだ」
「……そうやな。我がままで、自分勝手や。もうお前なんか知らん。勝手に虚無界でもどこへでも、行ったらええ」
「ん。ごめん。ありがとな」

ニッと、彼は笑った。
勝呂は眉間に皺を寄せて、顔を逸らせていた。言葉は悪いが、勝呂は勝呂なりに認めたということなのだろう。嬉しそうな彼の顔が、それを物語っていた。そして、他の祓魔師たちも、彼へと近づいてきた。

「燐……」
「しえみも、ごめんな」
「ううん。私は、燐に恩返しがしたかっただけなの。だから、謝らないで」
「………うん」
「アンタはそれで、いいの?」
「あぁ。……これでいいんだ。まろ眉も、サンキュな」
「べっ、別に私は……! ふん、アンタがいなくなって、私たちがこうして呼び出されることもなくなるでしょうから、清々するわ!」

カッと頬を赤らめ、早口で啖呵を切った彼女を、彼は目を細めて笑っていた。

突き放すわけでもなく、かといって、繋がっていないわけではない。
改めて思う。彼の傍に、彼らがいて良かった。
……だからこそ、こうして来る別れが、辛いのだけれど。

彼は顔を上げた。周囲が騒がしい。この場所を、他の祓魔師が嗅ぎ付けたのだろう。勝呂たちもそれに気付いたのか、表情を厳しくしていた。彼は笑う。そして、それぞれを見渡して。

「じゃあな」

また、とは言わない別れを告げて。

「俺、お前らのこと、絶対に忘れねぇから」

彼は背を向けると、勢いよく走り出した。
俺はその背中に付く。彼らが、遠くなる。俺はその背中をじっと見つめたのち、少し迷ったものの、どうしても言っておきたいことがあり、口を開く。

「いいのですか、あのようなことを言って」

彼は、俺の言葉に笑ったような気がした。背を向けていて分からなかったが。
そして、じっと前を見つめたまま。



「いいさ。どうせすぐに、忘れる」








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