青い焔を纏う王は、夜を跳ね。
一人の祓魔師が、銃を手に取った、同時刻。
彼女は、ふらつく身体を引きずりながら、軽く舌打ちしていた。
「…………ムカつく」
ギリ、と奥歯を噛み締めながら、彼女は近くにあった木に凭れ掛かった。ぼた、と地面に赤い血が落ちる。彼女はその血をぼんやりと見つめながら、ぐっと手のひらを握り締めた。
「アタシの血、まだ、赤い」
だから、大丈夫、と。
彼女、アンネルーゼは、笑った。
アンネルーゼは、生まれつき悪魔の視える子どもだった。魔障を受けたわけでも、悪魔との混血でもない。ごくごく普通の人間の子どもだったはずの彼女は、しかし、悪魔が視えた。
誰もが、彼女を悪魔と呼んだ。彼女を悪魔と呼ぶ人間の隣にいる悪魔を、彼女は視えていた。
彼女と関わった人間はみな、死んだ。悪魔が視える者に、悪魔は引き寄せられる。だから、彼女の回りにいる人間はみな、死んだ。ゆえに、彼女を悪魔と呼ぶ人間は増えた。
悪魔、とは、彼女にとって、普通に見える風景と同じだった。そこらじゅうにいる動物や、昆虫と同じだった。つまり、彼女にとって悪魔とは、特別な存在などではなく、そこらに転がっている石と同等の存在だった。
そんな彼女は、いつしか、悪魔の声が聞こえるようになった。彼女が、十歳のときだった。そして同時に、正十字騎士団が彼女を発見、保護したのも、十歳のときだった。
魔障を受けたわけでもなければ、悪魔との混血児でもない、しかし悪魔が視え、言葉の分かる少女。騎士団は彼女の扱いをどうしていいものか、迷った。
彼女は、ここも自分の居場所ではないことを、悟った。
この世界のどこにも、彼女の居場所はなかった。
だから彼女は、自分の居場所を求めて。
そして、
「…………―――、まだ大丈夫」
そっと、アンネルーゼは己の手首に指を這わせた。そこには、幾つもの傷跡が残されていて、細い手首にひどく不釣合いだった。
しかし彼女は、その傷をひどくいとおしげに撫でた。まだ、大丈夫、とその言葉を呟きながら。
「まだ、大丈夫。アタシは、大丈夫」
彼女の前に、彼が、現れた。
『…………―――、アンネルーゼ』
白と黒を纏いしその悪魔は、にこり、とどちらとも付かない笑みを浮かべた。
その時、彼女の頬に、一つ、雫が流れた。
「………、ルシファー、さま」
彼女は大きく目を見開いたまま、悪魔に両手を差し出した。赤く染まった両手を、しかし悪魔は、嬉しそうに手に取った。
『よくできましたね、私の可愛い天使』
『彼もまた、喜んでいるだろう。お前の行いを』
ふらつく彼女の体を支えながら、悪魔は、嗤う。
『さあ、最後のゲームの始まりです』
行けるな、と優しく囁く悪魔に、彼女は一つ、頷いた。
「それが、アイツの意思ならば」
青い焔を纏う王は、夜を跳ね。
一人の祓魔師が、銃を手に取った。
悪魔憑きは、白黒の翼に血を捧げ。
悪魔は嗤い、終焉を告げた、同時刻。
「さぁて、と。もうそろそろ、このお遊戯もおしまいでしょうねぇ」
全てを一望できる場所にいたその男は、ティーカップを片手に楽しげに謳った。
ゆらり、と揺れる湯気は、暗い夜の空に消える。
男はのんびりと椅子に深く腰を降ろし、くく、と喉を鳴らして。
「どの物語にも、【終わり】はあるものです。さて、今回のお遊戯は、一体どんな【終わり】なのでしょうね」
楽しみだ、とひっそりと呟く。そして、持っていた傘を広げた。
同時。パァン!と、甲高い破裂音が響き。
「チッ、外したか」
舌打ちが、男の背後で聞こえた。男は傘をくるりと回し、ニィ、と楽しげに笑った。ゆっくりとティーカップを持ち上げ、香りを楽しみながら。
「随分と乱暴な挨拶ですねぇ。貴方とは、知らぬ仲ではないでしょう? 安陪」
「あぁ、そうだな。お前とも、随分長い付き合いになるな。メフィスト」
男、メフィスト・フェレスは、ぱたんと傘を閉じると、椅子ごと背後を振り返った。そこにいたのは、銀色に鈍く光る銃を掲げた男、安陪が、煙草を咥えて立っていた。
二人とも、足元には煌びやかに光る街並みがある。そう、彼らは、何もない空中に、立っていた。
しかしお互いに、そのことに頓着した様子もなく、ただ淡々とお互いを見つめていた。
ふいに、安陪が口元に手をやった。そのまま、ふぅ、と煙草の煙を吐きながら、ぽつりと。
「…………、観客気分はどうだ? さぞ楽しいだろう?」
「ええ、とても」
「趣味悪りぃな、相変わらず」
「なんとでも。私にとっては、人も、悪魔も、さして変わらないのですから」
興味のある玩具。それが、メフィスト・フェレスにとっての、人であり、悪魔だ。
楽しげにそう言ってのけた悪魔に、チッと舌打ちを一つ。
「なんでこう、俺の周りにはろくな野郎がいねぇんだ」
「それは、貴方には言われたくありませんね。貴方だって、ろくな人間とは呼べませんよ」
「………違いねぇ」
クッと笑った安陪は、構えていた銃を下げた。同時に、メフィストも傘を下げる。ふわり、と煙草の煙が、宙を舞う。それはティーカップから立つ湯気と同化し、霧散した。
「珍しいですね。貴方がここまで関わってくるなんて。やはり、藤本の息子たちは気になりますか?」
「そういうお前も、随分とあの双子に興味を持ってるじゃねぇか」
「えぇ、彼らは実に興味深い存在ですから」
「彼らっつーより、奥村燐が、だろ。お前は」
「そういう貴方は、奥村雪男が、でしょう?」
メフィストの問いに、安部はひょいと肩をすくめた。お互い、言葉で遊んでいるのが分かっていたからだ。
「兄貴の方は、色々と抱えすぎていけねぇ。本気になるには、火傷どころじゃすまなさそうだ。ああいう手合いは、物好きに譲るさ」
「あぁ、なるほど。確かに、貴方はそうでしょうね」
ちらりと眼下を見やったメフィストは、ニィ、と口元を歪めていた。安部はじっとメフィストを見つめたのち。
「お前は、知っているのか? 奥村燐が抱えるものを」
「もちろん。彼が何を考え、どう行動しようとしているのかも、私は知っています。彼ほど悪魔らしく、そして人間らしい存在を私は知りません。だからこそ彼は、私を退屈させない存在。……くく、藤本に、よく似ている」
「アイツは………いったい何をしようとしているんだ?」
安陪の問いに、メフィストは一度口を閉じた。どこか遠くを見るような目で、彼の玩具箱である学園を見下ろしている。
その目には、感情の色はない。だが、その目の奥には、柔らかな光が見えた。
「…………、悪魔は、己の欲望に忠実だ。それは人にも通ずる。強い欲望は、時には自身だけでなく周囲さえも狂わせる。………奥村君は、己の欲望の為に、狂うことを選んだ。そしてそれによって、彼の回りさえも、少しずつ、狂い始めていた」
三年ほど前の話ですが、とメフィストは淡々とそう言った。
三年前といえば、奥村燐がこの物質界を去り、虚無界に行ったときのことか。ということは、奥村燐の狂気とはすなわち。
「彼は、この世界を守りたいと言った。そのために虚無界の王となり、大切にしていた存在さえ捨てて、虚無界へ行った。だが、彼を取り戻そうと、彼の大切な存在は相当な無茶をした。虚無界の門を、青焔魔ではない存在が開こうとした」
安陪は、初めて奥村雪男に会ったときのことを思い出した。
暗い、底の見えない目をしていた。そして彼は言った。目的がある、と。
その為に四大騎士になり、その立場を目的の為に利用するのだ、と。
彼の目的が何なのか、安陪はその時分からなかった。だが、数ヶ月前、兄である奥村燐を連れ戻す為、己の血を対価に虚無界の門を呼び出すと言い出したとき、悟った。
奥村雪男は、奥村燐に執着している、と。
「虚無界の門は、青焔魔が虚無界の王である証の一つであり、数ある能力の一旦に過ぎない。ですが、その能力が青焔魔を虚無界の王たらしめているのであることもまた、確か。一介の人間が、呼び出せるものではない。だが、奥村雪男は呼び出せてしまった。そしてそれによって、虚無界の門に歪みが生じ、結果として、奥村君の最大の敵を、この世界に呼び寄せてしまった」
皮肉なことに、とメフィストは肩を竦めた。
「そして彼は再び、この世界を守るために、そして、大切な存在を守る為に、己を犠牲にすることを選んだ。……全くもって、健気で可愛らしいかぎりじゃないか」
「笑えない、話だな」
「いいえ、傑作と言えるでしょう」
「悪趣味な野郎だ」
「なんとでも。私からすれば、なぜそこまでこの世界に、いや、人間に執着するのか分かりませんが、あの男に育てられたとなれば、容易に想像はつきます」
「………あの野郎の息子なら、そうだろうな」
どこまでも冷徹で、どこまでも優しい、あの男の息子なら。
「ですが、この狂いの連鎖の原因は、間違いなく藤本でしょう。………あの男は、あの時死ぬべきではなかった」
深く椅子に凭れ掛かり、メフィストは眼下を臨む。
「誰かのために自分を犠牲にする。それは大変美しいエンディングです。それで言えば、藤本は美しい最期を飾りました。ですが、同時に示してしまったのです。我が息子に。己を犠牲にして何かを守ることの、美しさを」
奥村燐、いや、奥村雪男にも通じる自己犠牲的な部分はそれか、と安陪は納得する。そして同時に、なんて皮肉だと、嘆かずにはいられなかった。
誰が悪いわけではない。誰もがみな、自分の大切なものの為に動いてきた。しかしそれが結果として、全てが負の連鎖となって連なっているなんて。
「ですがこれも、今回で終わりでしょう。奥村君が作り出したこの連鎖に、彼自身が終止符を打とうとしているのですから」
「その言い草だと、お前は知っているみたいだな。その、終わらせ方ってやつを」
「ええ、勿論。彼に、望みを叶えるための対価を頂いたのは、紛れもなく、………―――私なのですから」
メフィスト・フェレスは、いや、元八候王の一人、『時の王』サマエルは、悪魔よりも悪魔らしく、狡猾に笑ってみせた。
安陪は苦虫を潰したような、苦渋の表情で彼を見やり。
「その対価ってのは、何だ?」
「あぁ、それはですね………――――――――」
青い焔を纏う王は、夜を跳ね。
一人の祓魔師が、銃を手に取った。
悪魔憑きは、白黒の翼に血を捧げ。
悪魔は嗤い、終焉を告げた。
時を司る彼は、楽しげに語り。
陰陽師は、真実を知る。
そして、
そして………―――。
頭上に広がるのは、曇天にも似た、漆黒の海。
対峙するのは、白と黒と、そして、青。
彼は言う。
『何故、殺すのか』
彼は答える。
「願いだから」
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