そして、秋    陸




月が、綺麗な夜だ。
レンと共に辿り着いた先は、偶然なのか分からないが、あの訓練場だった。開けた大地の中心に立った俺は、空を見上げた。
月を背に、ゆっくりと浮遊しているアイツがいた。その姿はまるで天使のようで、しかし、その美しさは悪魔にも似ていた。
俺は、目の前の存在をじっと見つめる。黒と、白。背に同色の翼を持つ、悪魔。

「ルシファー」

俺がその名を呼べば、ルシファーはゆっくりと振り返った。俺と目が合うと、にっこりと微笑んで見せた。その笑みはまさに天使のように慈悲深く、温かみのあるものだ。だが、俺には分かる。
ルシファーの目には、何の温度も宿していない。

『これはこれは。お久しぶりですね。貴方のことを、お待ちしていましたよ』
「あぁ。随分と、待たせちまったみたいだな」
『えぇ、ずっと、お待ちしていました。私が、どれだけこの時を待ちわびたことか。………貴方を殺す、この時を』

ルシファーは両手を広げ、歓喜の声を上げた。背負った翼が、ぶるりと震えた。
俺はただじっと、そんなルシファーを見つめていた。この悪魔と交わす言葉の無意味さを、俺は十分に理解していたからだ。

堕天使、ルシファー。
虚無界の王にして、絶対君主であった前王青焔魔の、側近中の側近。八候王の長男であり、第二権力者であった『時の王』サマエルを退き、その地位に付いた。いわばメフィストの後任に当たる存在だ。
悪魔の地位は、自身が持つ能力値の高さで決まる。強ければ強いほど、上へ。虚無界は、良く言えば実力主義の世界なのだ。
つまり、能力だけで言えば、ルシファーはメフィストの上を行く。それほどの力を持った悪魔だったが、俺が青焔魔を倒したことで敵対することになってしまった。
全ては、青焔魔を殺した俺を、殺すために。

『何時の世も、人間というのは強欲な生き物だ。いつだって、私の大切な物を奪っていく。だから私も、人間の大切なものを奪ってやろうと考えた』
「それが、お前が虚無界に来た理由か」
『それもあります。ですが一番の理由はやはり、貴方でしょうね。貴方はこの世界を愛していらっしゃる。それを壊せば、貴方はきっと、私が感じた絶望を味わうことになる』
「……敬語は止めろって言っただろ。それに、壊させやしないさ。俺が。絶対に」

かちり、と倶利伽羅が鳴く。柄に手を掛けてそう言えば、ルシファーは楽しげに笑みを深めていた。

『……―――そういえば、貴様には双子の弟がいたな。そして、かつて虚無界の門を呼び出したことがある』

唐突に、ルシファーがそう言った。ハッと、背後にいたレンの纏う空気が、固くなるのを感じた。

「何が言いたい?」
『いえ、双子の弟がいるのなら、この場にお呼びしようかと思いまして。あながち、無関係ではないでしょう?』
「アイツは元々無関係だ、っつってもどうせ無意味だろ? それに、まどろっこしい言い合いは無しにしようぜ? お前の協力者とやらが雪男のとこに向かってるんなら、最初からそう言えばいい」
『ふん。分かっていて敢えてそれを言う貴様も、私と同じだと思うが? まぁ、いい。望みどおり、言いたいことを言うことにしよう。………「貴様の弟が大事なら、大人しく私に殺されろ」』
「は、安易だな」
『しかし、貴方にはこれ以上ない効果を発揮すると思いますが』

ルシファーは、絶対の微笑を浮かべたまま、そうでしょう? と自信満々にそう言い切った。俺は少し考える素振りをして、確かに、と答える。

「俺の『弱点』を考えれば、そうだろうな。力じゃ、お前は俺には勝てない」
『そういうことだ。ひ弱な人間を盾にするほうが、よっぽど効率かいい。そしてなにより、王証の一つである虚無界の門を呼び出せるとなれば、どう転んでも私に有利だ』
『ルシファー、貴様………ッ』

ぎり、と奥歯を噛み締めたレンが、低く唸る。殺気が、当たりに充満する。
そう、すべては、それが原因だった。俺は少し、苦々しい思いに駆られた。

虚無界の門は、虚無界と物質界を繋ぐ門だ。つまり、悪魔と人間を区切る境界線でもある。だからこそ、王が管理し、治める必要がある。例外は『時の王』サマエルだが、元々門を作ったのはサマエルであり、その力を青焔魔に譲渡したので、それほど大きな門を作ることはできない。
つまり、王以外が虚無界の門を呼び出すことはできないとされていた。
だけど、それに狂いが生じた。それが、数ヶ月前のできごとだ。俺を連れ戻そうと、雪男の血を使って、虚無界の門を呼び出せてしまった。

つまり、雪男の血があれば、誰でも虚無界の門を開くことができる。

「俺がお前の要求どおりに殺されるにしても、跳ね除けたとしても、お前には有利ってわけだ。雪男を殺せば、血が手に入る。その血で虚無界の門を開いて、物質界をめちゃくちゃにできる」
『そうです。それが、私の願い。貴方に絶望を与えることが、私の望みなのですから』

ルシファーは、笑う。どこまでも楽しそうに。

『そしてそれが、私の作り出したゲームの、エンディングだ………!』

あはは、と狂ったような高笑いが、その場に響いた。いや、実際のところ、ルシファーは狂っているのだろう。大切な存在を、失くして。
だが、それは俺にとっても、そう、だ。

俺だって、たぶん、もう……―――――――。

「く、くく………、随分と楽しそうだな、堕天使。だが、このゲーム、負けるのはお前だよ」

ぐ、と倶利伽羅の柄に手を掛ける。途端に、ざわ、と俺のほのおが騒ぐ。俺はそこで一度、手を止めた。
分かって、いる。これを抜けば、もう戻れないことくらい。だけど、それでも、俺には守らなきゃならないものがある。そのために、自分のために、足掻くと決めたのだから。
だから、後悔は、しない。あの日、そう決めたのだから。






『それで、いいのですね? 奥村燐』

暑い、夏の日。蝉の声に混じって、悪魔の声はやけに大きく響いた。額に滲む汗を拭いながら、俺は一つ、頷いた。ひょいと肩をすくめて。

『仕方ねぇだろ。それしか方法がねぇんだから』
『ですが、それで失くすものもまた、多いのですよ。答えは慎重に出した方がいいんじゃないですか?』
『慎重にっつったってさ、どうせ出す答えは決まってんだ。だったら、考えるだけ無駄じゃね?』
『……。まぁ、貴方が納得しているんでしたら、それでいいんですけどね。私は』
『だって、しょうがねぇじゃん。………弟を守るのは、兄貴の役目だしな』

俺の言葉に、悪魔は笑う。楽しげに。そして、どこか試すような目で俺を見て。


『その為に、すべてを忘れることになっても?』


どうです? と悪魔は問う。だから、悪魔おれも笑う。

そして、






勢いよく、刀を引き抜く。しゃあ、ん、と倶利伽羅が鳴く。鞘から出されたその刀身は、青く揺らめいている。それまで笑っていたルシファーは、俺が倶利伽羅を抜いたことで、表情を消した。

『いいのですか? 貴方の大切な弟を、なくすことになりますよ』
「……………―――、何を、言っている?」

笑う。気分が高揚する。力を解放しろと騒ぐ。分かってる。十分に。さぁ、早く、

悪魔おれに、弟なんて、いないだろ?」


ころして、しまえ。


だん、と足に力を込めて、飛躍。刀を振りかぶる俺は、やはり、獣じみていた。

『………っ、正気か、貴様………っ』

ルシファーが焦ったように、両手を前に突き出す。途端に魔法陣が出現し、防御壁を作り出す。それは振り下げた刀身とぶつかり、激しい火花を散らした。俺は一度刃を下げ、後退。地面に着地したのと同時に、再び刃をルシファーに向かって振り上げる。刀身から放たれた青い焔は青い閃光となって、ルシファーへと放たれる。しかしそれは、ルシファーが繰り出した防御壁の前に霧散する。

『無駄です。その程度の焔では、私は堕ちませんよ』
「……だろうな」

俺の焔を受けてなお崩れない、絶対の防御壁。それが、ルシファーが虚無界で第二位の地位に就いた力。悪魔でありながら、しかし天使の力を持つ堕天使の、能力。

明けの明星

ルシファーは防御壁を保ったまま、両翼の翼を広げた。その黒白の翼は月の光を浴び、艶やかに反射した。まるで月の光を食うようにその翼は徐々に大きくなり、細かく震えるたびに、はらりはらりとその羽を散らせる。しかし、羽は地には堕ちず、空中を漂っていた。
ルシファーは、笑う。そして、左手を天に向かって伸ばすと。

『さぁ、偽りの王よ。私の前にひれ伏せ。そして詫びろ。己が罪を認めるのだ………!』

いけ、と左手が振り下ろされた瞬間、空中を漂っていた羽が、一斉に俺に向かって降り注ぐ。俺はぐっと腰を落として、一度倶利伽羅を背後に回す。羽が俺に届く直前に、刃を引き抜く。放たれた焔の閃光が、羽を青く燃やし、無数の火の玉を作る。

『こ、れは………―――!』

驚愕に目を見開くルシファー。それもそうだろう。己の放った羽が、焔となって己に返って来ようとしているのだから。
俺は、倶利伽羅を天に掲げる。?きだしの青い刀身が、月の光に反射する。

「俺が、お前に大してなんの策も練ってないと思ったのか? 俺はお前の戦い方を知っている。それを利用することくらい、わけないさ」
『くっ』
「ん、で? なんだっけ? 俺はお前の前にひれ伏して、詫びて、自分の罪を認めればいいんだっけ?」

俺、頭悪いからさ。と笑って。

「俺がひれ伏して、詫びて、罪を認めれば、それでいいのかよ? そんなことでいいのなら、いつだってしてやる。だから、」

尽きろ、と。
一言、言い放ち、同時に、その賽を、振り下ろした。
同時、青い焔の玉は無数の弾丸となり、ルシファーに襲い掛かる。両手を突き出し、防御壁を作り出すものの、一つ、二つと火玉が着弾するごとに、壁はひび割れていく。
そして。

びしり、と亀裂の走る音とともに、完璧と思われた防御壁が崩壊する。ぱぁん、とガラスの割れる音が響いたのと同時。

『あ、あああああああああああああ!』

青い火玉が、ルシファーの両翼へ着弾。火は瞬く間に広がり、ルシファーを包みこむ。

『あぁ、あああ、青焔、魔、さま………! なぜ、どうして、………っ、』

焔に包まれたルシファーは地に堕ち、それでも必死に、月に向かって手を伸ばす。どうして、なぜ、と叫びながら。

『私は、ただ、ただ…………っ』

なくしたものを、取り戻そうとした、だけなのに。
ルシファーの嘆きは焔とともに、尽きた。残るものは、何一つない。塵さえも残さず燃え尽きたその跡を見て、俺は呟く。

「『暁の子、どうして天から落ちたのか。世界に並ぶ者のない権力者だったのに、どうして切り倒されたのか。それは、心の中でこううそぶいたからです。天にのぼり、最高の王座について、御使いたちを支配してやろう。北の果てにある集会の山で議長になりたい。一番上の天にのぼって、全能の神様のようになってやろう。ところが、実際は地獄の深い穴に落とされ、しかも底の底まで落とされます』…………―――お前は、求めすぎたんだ。だから、落ちた」

堕ちて、消えたんだ。
そう呟いて、俺は小さく苦笑を漏らす。

「だけど、それは俺も同じなんだ。俺だって、求めすぎた。だから…………失くすんだ」

倶利伽羅を鞘に収める。青い焔は消え、辺りには暗い闇が降りる。だが、俺には見えていた。真っ直ぐにこちらを見る、アイツの姿を。
夜に紛れる黒いコートが、風に揺れる。その様は本当に、祓魔師そのもので。俺はそっと、目を細める。
あぁ、俺はあと何度、その名を呼べるだろうか。

「………―――、雪男」










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