そして、秋    漆




安部と別れてすぐ、兄さんを探そうと走り出した。だが、闇雲に走ったとしても、見つかるとは限らない。だったら、兄さんの行動を予測できそうな人物と連絡を取ったほうがいいだろう。僕は早速、とある人物へと連絡を取った。きっと、ことの全貌を知っているであろう人物。悪魔でありながら、騎士団の名誉騎士としての立場を持つその男。
彼なら何か知っているだろう。もしかしたら兄さんが隠していることも、何故、僕を拒絶したのかも、知っているかもしれない。僕にはそれを知る権利がある。事態は一刻を争うのだ。一分一秒でも無駄にはできない。
プルル、と携帯のコール音が、やけに遅く感じた。早く、早く出ろ、と急いた気持ちで聞いていると、僕の前に立ちふさがった人物を見て、相手が出る前に電話を切った。

「………―――、一体、何の用ですか。悪魔憑き、アンネルーゼ」

僕の目の前には、真っ青な顔をした四大騎士の一人がいた。彼女は全身を赤く染めながら、ふらつく足を必死に立たせて、僕と対峙していた。このまま血を流しすぎれば、彼女もただでは済まないだろう。一目見て分かるほど、彼女の容体は悪い。
それでもなお立とうとする彼女に呆れつつ、僕は彼女に近づいた。

「その怪我では、ロクに動けないでしょう? 早く治療した方がいいですよ」
「…………」
「全く………。ほら、診せて下さい」

本当なら、彼女のことなど放っておきたい。だが、それでは僕が何のために医師を目指しているのか、分からなくなる。僕は、誰かのために傷つく兄さんの傷を癒したくて、医師になろうと思った。そんな僕の夢を、兄さんは笑わずに、無邪気に喜んでくれた。だから、もし、今ここで彼女を見捨てたら、兄さんはきっと、悲しむだろうから。
僕も大概だな、と苦笑しつつ、彼女の腕を取ろうとして……―――。

「『…………召喚、』」

ぽつりと呟いた彼女の言葉に、ハッと背後に飛び退く。その瞬間、カッと彼女の身体が発光して。

「『小さな王、バジリスク…………!』」

その名と共に、彼女の身体がぐう、とうねる。僕は腰に下げていた銃を引き抜き、標準を合わせる。銃口の先で、その全貌がぬらりと動いた。
上半身は鶏、下半身から尾にかけては蛇、ぬるりとした鱗が、月の光に反射する。
『地の王』アマイモンの眷属にして、蛇を司る王。触れるだけに死に至るという猛毒を放つ悪魔。
小さな王、バジリスク。

「ッ、正気か、悪魔憑き!」
「『………ふふ、あはは、あははははッ!』」
「くそッ」

僕の声は聞こえていないのだろう、狂ったように笑うアンネルーゼに、僕は軽く舌打ちした。一丁だった銃を二丁に変え、威嚇の為に標準をずらして発砲。しかし、アンネルーゼの哄笑は止まらない。

ぐぅ、とその巨体が動く。ずるりとぬめりを帯びた尾が鞭のようにしなり、周囲の木々をなぎ倒す。いや、その尾が触れた先から、溶けていく。
じゅうう、と蒸気を立てて溶けるさまを見て、厄介だな、と再び舌打ちしそうになった。
僕の今の手持ちは、この二丁の銃と、聖水くらいだ。ストックは大量にあるが、この巨体を相手にそれだけでは心もとない。竜騎士はもとより、長距離・広範囲にわたる戦闘要員だ。騎士のように、単独での戦闘には、実は不向きだ。特にこういった、数よりも質を求められる相手には。
弱ったな、と僕はバジリスクとの距離を開きながら、考える。
詠唱するにしろ、唱えている時間は隙になるからダメだ。となれば、手持ちの武器だけでこの悪魔を祓わなければならない。アンネルーゼに正気がない今、どうにかしなくては。

「………、全く、時間がないっていうのに」

木陰に身を潜め、そっと呟く。
本来なら、アンネルーゼの相手をしている暇はない。どの道、一対一で敵うような相手ではないのだ。応援を呼ぶのが、一番の手だろう。だが、今は兄さんへの追跡で、ほとんどの祓魔師が出払っている状態だ。そこで僕が応援を呼んだとして、こちらへ割ける人員があるのかどうか。
どうする、と何度目かになる呟きを、自問する。その時。

「………―――、bind」

キィイイイ、と激しい耳鳴りと共に、バジリスクの頭上に、巨大な陣が現れる。それは激しい光を放ち、バジリスクに降り注ぐ。すると、バジリスクはぴたりと動くのを止め、ギィ、と鈍い悲鳴を上げている。

「あれは、拘束術式?」

でも、一体誰が、と思った直後、がさり、と近くの茂みが揺れた。反射的にそちらへ銃口を向けて、現れた人物にハッと目を見開く。

「………、マリア、さま」
「敬語はいらんと、言っただろう」

紫色の髪を揺らしたその人は、いつもの無表情で、その場に立っていた。

「何故、貴女がここに? 貴女は、にいさ……、奥村燐を追っていたはずでは」
「あぁ、そうだ。私は青焔魔を追っていた。だが、それ以上に重要な仕事があってな。……お前を、奥村燐のところへ導くことだ」
「え?」

マリアの言葉が信じられず、僕はただじっと彼女を見つめた。何を考えているのだろう、彼女は。反乱を起こした青焔魔を追わずに、僕を兄さんのところへ行かせる? そんなこと、彼女がするはずがない。
この、マリア・イヴという女性は、そういう人物だ。何よりも、騎士団の誇りを忘れず、悪魔に対して妥協を許さない。そんな、彼女が。
僕が驚いているのが分かったのか、彼女の表情が、ふっと緩んだ。四大騎士になって初めて見る、彼女の笑みだ。

「なぜ、という顔をしているな、奥村雪男。なぜ私がお前を、奥村燐、いや、青焔魔のところへ行く手助けをするのか、と」
「……えぇ」
「そうだな。分からない、だろうな。だが、それでいいのだ。お前にはお前の、私には私の、事情というものがある」

マリアはそう言って、バジリスクを見上げた。もうそこには、笑みはない。
今の彼女は、果たして四大騎士、マリア・イヴなのだろうか。それとも。

「行け、奥村雪男」
「…………―――、すみません」

一人では無理だ、とは言わない。彼女の能力は、一人だからこそ発揮される。僕は彼女に背を向けて、走り出した。背後で、マリアが笑ったような気がしたが、きっと、気のせいだろう。

僕は走りながら、携帯を取り出す。再び、コール。先ほど電話していたからだろう、相手はすぐに出た。

「奥村です。……どうせまた、どこかで見ているのでしょう? フェレス卿」





奥村雪男を見送った後、マリアは一人、魔法陣の中から出ようともがくバジリクスを見上げた。
冷たく、無表情のその横顔には、どこか遠くを見ているような、そんな悲壮感が漂っていた。

「思えば、これもまた、神が私に与えた試練なのかもしれないな」

呟く。そして、一度だけ、その紫色の瞳を伏せた。


マリア・イヴ・エルンストは、騎士団の相談役である三賢者一族の生まれだった。生まれ付いて悪魔を祓う才に長け、その能力値の高さから、聖母マリアの生まれ変わりではないかと噂されたほどだった。
だが、その才によって、彼女は孤立した。高い能力は誰かの反感を買い、同じ祓魔師であるはずの同期の塾生たちでさえ、彼女を畏怖した。
祓魔師はもとより、集団での行動を基本とする。だが、マリア・イヴの力は、周囲に人がいては成り立たない。それゆえに、彼女は常に孤立していた。だが、マリア・イヴはそれでも良かった。悪魔を祓い、人々を救う。それが、彼女が生まれ時から感じていた、己の宿命だと思っていたからだ。

しかし。
そんな彼女の前に、「彼女」は現れた。

生まれついて悪魔が視え、その能力を取り込んで己のものとする。悪魔と同化する、異端の能力を持つ少女。
アンネルーゼ。悪魔憑き。彼女は悪魔と共に生きる少女だった。

マリアは、愕然とした。
同じ人間であり、救うべき存在であるはずの彼女は、祓うべき悪魔がいて初めて、能力が発揮される。手騎士とはまた違う。彼女は、悪魔がいてこそ、存在する少女だったのだ。

祓うべきものと、守るべきもの。対立するはずの二つを両立させた存在を知ったマリアは、己の傲慢を知った。

『……―――、アンタが、聖母さま?』

幼い少女は、悪魔を身に纏いながらも、綺麗な目をしていた。そしてその目でじっとマリアを見上げ、笑ったのだ。

『ねぇ、聖母さま。アンタなら、アタシを殺せる?』

無邪気に。そして、残酷に。彼女はマリアにそう尋ねた。
マリアは、答えられなかった。人間は、守るべきものだと言った。だが、彼女は違うと言う。

『アタシはね、悪魔なの。だから、聖母さまはアタシを殺さなきゃ』

あはは、と。何が楽しいのか、少女はずっと笑っていた。己を悪魔だと言い、殺せと言う。それが、聖母であるお前の役割だと。
悪魔を祓うことで、人々を救えるのだと思っていた。だが、マリアは彼女の前で、それを言うことはできなかった。悪魔を祓ったところで彼女は救えないのだと、悟ったからだ。

マリアは結局、少女を殺さなかった。代わりに、騎士団に迎え入れ、悪魔を祓う術を教えた。だが、生まれついて悪魔の視えていた彼女にとって、悪魔はそこらに転がっている石となんら変わらない存在だ。祓うことなど、息をするよりも簡単のようだった。
そして、あっと言う間に、彼女はマリアと同じ、四大騎士になった。

悪魔と共に生きる彼女に、悪魔を祓う生き方を教えたのは、マリアだ。
だが、悪魔を祓う生き方をしていたマリアに、悪魔と共に生きることを教えたのは、彼女だった。


マリアは、伏せていた顔を上げた。目の前には、悪魔。身動きの取れない彼女に向かって、手のひらを向けて。

「アンネルーゼ。貴様は私に言ったな。貴様を殺せるか、と。その問いに、答えてやろう」

私は。

「…………―――、お前を、………―――」

ぐ、と開いていた手のひらを、握り締める。同時に、アンネルーゼを囲っていた結界が、捻じ曲がる。そしてそれは、結界内にいた彼女も、同じことで。

『「ぎぃぃいいい……―――――!」』

甲高い、悲鳴が響く。巨体が、捻じ曲がる。
聖母、マリア・イヴの能力は、結界と、その中に拘束した相手を曲げることができる。だが、結界内に人が居ては、曲げることが出来ない。つまり、周囲に人がいては逆にマリアの邪魔になってしまうのだ。

捻じ曲がった悪魔は、全身から血のような液体を撒き散らしながら、倒れていく。その液体も、結界によって外に漏れることなく、浄化されていく。

どぅ、と倒れこんだ悪魔が、ぴくりとも動かなくなる。同時に、その巨体が砂のように細かい粒子となって、流れていく。
後に残されたのは、血にまみれた少女が一人。
マリアは少女に駆け寄って、その体を抱き起こした。瞼を閉じたその顔は青白く、だが、上下した肩は確かに生きている証だった。

マリアはその横顔を見、小さく、笑う。

「私は、聖母ではないな」

ただの、人間だ。
呟いて、そっと、その肩を抱く手に、力を込めた。





電話を終え、僕は急いであの場所へと向かった。今回の、始まりの場所へ。兄さんにとっても、僕にとっても、思い出の深い場所。

あの場所で、兄さんは己が悪魔であり、青焔魔の仔であることを明かした。青い焔を纏い、八候王の一人、『地の王』アマイモンと対立した。
そして、今。

青い焔を纏いながら振り返った兄さんは、やはり、いつものように、笑っていた。

「………―――、雪男」

確かめるように、兄さんは僕の名を呼ぶ。その声を、僕は随分と久しぶりに聞いたような気がした。だから、だろう、余計に、泣きたくなった。そんな僕の表情を見て、兄さんは少し困った顔をした。

「もしかして、メフィストから聞いたのか?」

全てを。真実を。

どうしてあの時、兄さんが記憶を失くしたのか。
どうしてあの時、僕を拒絶したのか。

その理由を、原因を、僕は知った。
それは全て。

「………―――全部、僕のせい、なんだね」

僕が虚無界の門を呼び出したせいで、虚無界の門に一部、亀裂が走った。その亀裂から、ルシファーはこの物質界に来た。召喚したのは、前四大騎士であり、僕の前任に当たる男、カイン。
カインは、表向きは、一年ほど前に任務中に不慮の事故があり、死亡したことになっていた。だが実際は、ルシファーを物質界に召喚するために身を隠し、今まで生き延びていた。だが、実際にルシファーを召喚したものの、ルシファーを制御できずに殺された。その後、カインと友人関係にあったアンネルーゼの協力のもと、兄さんを殺そうと狙っていたらしい。
それがちょうど、一ヶ月前。「青い夜の子」事件が終焉を迎えたころのことだ。
そして、それに気付いた兄さんは、何とかルシファーを虚無界に戻そうとした。だが、巧妙に姿を隠したルシファーを見つけるには、能力の制御された状態では難しかった。そこで兄さんは、フェレス卿と取引をした。それ相応の対価を払い、協力を仰いだ。
虚無界の門を修復し、もし万が一兄さんがルシファーに敗れることがあれば、代わりにルシファーを虚無界へと送り返す。
それが、兄さんの願いだった。
そして、兄さんの支払った対価とは。

「お前のせいじゃねぇよ、雪男。全部、俺がしたくてしたことなんだ」
「でも、僕のせいで起きたことを、兄さんが尻拭いをするなんて、間違ってるよ」
「間違ってなんかいない。そうだろ。だって、俺とお前は双子の兄弟で、俺は、お前の兄貴なんだからさ」

兄さんは、笑う。本当は悲しいくせに、笑っている。それが一番悲しくて、一番、自分を許せなくさせた。

「大丈夫だ。きっと、もうすぐ、全部忘れるからさ」

何でもないことのように、兄さんは、笑う。

そう、「忘れる」のだ。
大切な、記憶。
物質界での、思い出。

この世界を愛する兄さんが、支払った対価。

「だから…………―――、泣くなよ」

そう言う兄さんは、もしかしたら、自分は笑っているのだと思っているのかもしれない。だけど、違う。違うんだよ。僕には、ちゃんと分かるんだ。
兄さん。ねぇ、兄さん。泣いているのは、僕じゃなくて。

「泣かないでよ、兄さん」










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