そして、秋    捌




とても綺麗だ、と彼女は思った。



まだ、スラムで生活していた頃のことだ。親しい人は死に絶え、生きていく為に泥水を啜って、まるで汚いボロ雑巾のような生活をしていた時のこと。
スラムの人間は、皆同じ目をしていた。活力のない、死んだものの目。他の人間には見えなかったけれど、悪魔の方がよっぽと生きる活力に溢れていた。少なくとも、彼女にはそう見えた。
だが、死んだような目をしているくせに、スラムの人間は生きることに執着していた。誰もかれも、みっともないくらいに死に対して恐怖し、生きたいと渇望していた。
汚い、と思った。無様だと思ったし、どうしてそこまで生に執着するのか、彼女には分からなかった。
彼女の隣では、いつも悪魔が笑っている。そして彼らとともに、彼女は生きていた。だから、生きているのに、彼女は死んでいた。

そんなあるとき、彼女は一人の青年と出会う。

彼はある日、ふらりとスラムに現れた。真っ白な服に身を包んだ彼は、腰に一振りの剣を差していた。
だが、そんな目立ついでたちをしているくせに、彼はスラムの雑踏に上手く紛れ込んでいた。誰も彼のことを気にした様子もなく、そして彼もまた、それを理解しているようだった。

不思議な男だ、と思った。
じっと、影からその男を見つめていると、ぴたりと彼が歩くのを止めた。そして、真っ直ぐにこちらを見返してきたのだ。
彼女は驚いた。目が、合ったのだ。そしてとっさに、身を翻した。

彼女の隣で、悪魔が笑う。アイツが気になるのか? アイツも殺してやろうか? ニタニタと笑っている。
彼女は、焦った。なぜここまで焦るのか分からないくらいに、焦っていた。誰が死んでも、両親が死に、優しくしてくれた隣近所の老人が死に、親戚をたらい回しにされ、そして彼らもことごとく死んだとしても、ここまで焦りを覚えたことはなかった。
とにかく、ダメだ、と思ったのだ。あの男を、自分と、この悪魔と関わらせてはならない、と。

荒い息が煩い。心臓の鼓動が、煩い。煩わしくて、たまらない。しかし体は言うことを聞かずに、意思に反して走っている。走って、走って。もう大丈夫かと振り返ろうとした直後、足が縺れ。

「あ………」

地面が、近づく。そのとき。

「おっと。………大丈夫かい?」

ぐ、と体が傾いたまま、止まる。目の前には、白い、腕。
そして、声が頭上から降ってくる。低く、しかし、耳に心地いい。そんな声が。
彼女は、恐る恐る顔を上げて、その人を、見た。
目が、合う。

「怪我はなさそうだね。………良かった」

ゆらり、と揺らめく、翡翠色の瞳。まるで、この世界の全ての森が、そこに集まったような。そんな、不思議な色。
そして彼は、その瞳で、静かに微笑んで見せた。


それが、彼。
カイン・エギンとの出会いだった。



カインは、とにかく不思議な男だった。
彼女が離れようとすれば付いて来て、本当に嫌だと思ったときには、黙って離れる。かと思えば、君はいい子だね、と笑って、彼女の頭を撫でた。
分からない、人間だった。自分は悪魔が視えると言えば、彼はカラリと笑って。あぁ、僕も見えるんだよ、とあっさりと告白した。そして、僕たちは一緒だね、と言った。
それに、妙に子ども臭いところがあって、スラム街の子どもたちと一緒にはってはしゃいで遊んでいたり、レベルの低い言い争いをする。
言い方を変えれば、………カインはどこまでも純粋な男だった。

カインがスラムに来て、一ヶ月が過ぎた頃。
カインが、ふらりと町外れに出かけるのを見かけた。気になって、そのまま後を付けた。カインは町の外れにある荒野に一人佇んで、ぼんやりと空を見上げていた。その目は、今まで見てきたどんなものよりも遠く、切ない色を宿していた。
いつも、天真爛漫といっていいほどの明るさを見せるカインとは思えない、静かなその表情に、彼女は目が離せなかった。
そして、カインはぽつり、と。

「…………―――、ユリ」

小さく、囁いた。

その瞬間、彼女は弾かれたように踵を返した。
心臓が、痛みを訴えている。どくん、どくん、と高く鳴っている。分からない。混乱している。どうして、自分は、走っているのだろう。どうして、逃げているのだろう。
分からない。ただ、どうしようもなく、あの場所にいたくないと思ったのだ。

「っ、あ!」

足が縺れ、派手に転んだ。地面と顔が衝突する。そしてそのまま、ぴくりとも動けなくなった。

「っ」

あぁ、なんて惨めな姿だろう。こんな、こんな泥だらけの姿、誰が見ても汚いと思うだろう。それなのに、どうして。

どうして自分は、彼と同じ存在であるなどと、思っていたのだろうか。

あの静かな森に、自分はいないのに。



それから、カインは時々、ふらりとその荒野に向かうことが多くなった。その背中を見送るたびに、息が苦しくなった。ユリ、というのは、誰だろう。響きのいい、綺麗な名前だ。そして、あんな風にカインが呼ぶのだから、きっと、とても綺麗な人間なのだろう。
そして、カインにとって、とても、とても大切な人間なのだろう。子ども心ながらに、それは理解できた。
だけど、それならどうして、一緒にいないのだろう。カインは空に向かって名を呼ぶだけで、スラムから出て行こうとはしない。あんな風に呼ぶのだから、会いに行けばいいのに。
そうすれば、きっとこの胸の苦しさもなくなる。カインがいなくなれば、きっと。
それなのに、カインはスラムから出ていかずに、半年の月日が流れていた。


カインがスラムに来て、半年。
このまま、カインはここに住むのだろうかと思い始めた頃、彼を迎えに来たという集団が現れた。きっちりとした黒のコート、胸には紋章。理路整然と並んだ彼らの中心に、その人はいた。
紫色の綺麗な髪、凛とした冷徹な眼差しは、見ているだけで相手を降伏させる、そんな強い力を持っていた。
彼女は、悟る。あぁ、あの人が「そう」だ、と。

紫色の彼女は、カインを見下ろすと、淡々と口を開いた。

「カイン・エギン。貴様、帰還命令を無視して何をしている」
「あーあ、とうとう見つかってしまったか。さすがは聖母様だな」
「茶化すな。全く、貴様は四大騎士としての自覚が足りん。……聖騎士は何を考えてこの男を推薦したのか、理解に苦しむ」
「あはは。まぁ、それはちょっと同意するな。………シロウは、優しすぎるんだよ。同時にすごく怖い人だけどね」

肩をすくめたカインに、呆れたようにため息を吐いた紫色の彼女は、ちらり、とこちらを見た。その、鮮麗な紫色の瞳が、す、と細まる。

「カイン・エギン。………、この少女が?」
「………あぁ、そうだよ。彼女が、そうだ」
「………そうか」

紫色の彼女は、一歩前に出た。そして、じっとこちらを見下ろしてくる。
あぁ、なんて綺麗な人間なのだろう。カインと並べば、さらにその美しさが際立つ。そういえば、カインが言っていた。彼女は。

「……―――、アンタが、聖母さま?」

彼女がそう尋ねると、紫色の彼女は、少し困惑したような顔を見せた。その顔に、彼女は妙な楽しさを覚えた。
そうだ、もっと。もっと困ればいい。隣にいる悪魔が笑う。

「ねぇ、聖母さま。アンタなら、アタシを殺せる?」

口元が笑みをはく。込み上げてくる笑いをそのままに、彼女はさらにそう尋ねた。すると、紫色の彼女は、さらに困ったような顔をして、搾り出すような声で答えた。

「それは、祓魔師の仕事ではない。人間は、守るべきものだ」

綺麗な、綺麗な言葉だ。だが、それは上辺だけを滑って、落ちるだけ。
彼女は、笑う。違うよ、と。

「アタシはね、悪魔なの。だから、聖母さまはアタシを殺さなきゃ」

それが、アンタの仕事だろう?
悪魔アタシは、笑う。
可笑しくて、仕方なかった。どうしてこんなにも笑えるのか分からないくらい、彼女は笑った。

結局。
紫色の彼女は、彼女を殺さなかった。それどころか、仲間へと引き入れた。共に戦う仲間がいると誘った。だが、彼女と同じように悪魔が視え、共に戦うはずの祓魔師たちは、彼女を受け入れることをしなかった。
異端は、異端。悪魔は、悪魔。そうとしか見なかった。

彼女は、孤独だった。
だが、それでも良かった。スラムにいた頃より、食べるものに困らなくなったし、それに、騎士団にはカインがいた。
カインの傍は、安心できた。彼の森に住むことはできなくても、傍にいれれば、それで良かった。
彼の森に住めるのは、綺麗な人間だけ。あの、紫色の、彼女だけ。だが、それでいいのだと思っていた彼女は、ある日、知ることになる。

紫色の彼女は、カインが呼んでいた「ユリ」ではなく、マリア・イヴという名だということ。
そして、ユリというのは、カインの腹違いの妹の名であり。
悪魔の王、青焔魔の仔を成した魔女として処刑された、ということを、知る。


カインは、同じ血を分けた妹であるユリ・エギンを、愛していた。一人の、女として。
だが、彼女はその想いに気付くことはなく、悪魔の王を愛し、死んだ。

カインは、言う。

「炎の中で、あの子は笑っていたよ。そして、助けにきた悪魔に幸せそうな顔をしていた。僕は去っていくその姿を見て、嫉妬で狂いそうだったよ。………でも、ユリはもういない。悪魔の仔を成したあの子は、天国に行くことは許されない。だけど、あの子にとっての地獄は、天国なんだろうね」

そう言って、静かに笑っていた。
切なく、それでもカインは、笑っていた。

あのとき、までは。




カインが豹変したのは、約五年ほど前。
青焔魔の仔が、生きていると知らされたときだった。

青い焔を纏う、悪魔の仔。
悪魔と、ユリの、子ども。

それはユリと共に死んだとされていた。それが、生きていた。生きて、聖騎士であった藤本獅郎の元で育てられていたという。
そのことが発覚し、事実を知ったカインは。

………―――狂って、しまった。

愛する女を奪った、憎い悪魔の仔。
愛する女が処刑される理由となった、仔。
それが生きているとなれば、カインが狂うのも、当然なのかもしれない。元々、ユリが死んでからずっと、カインはどこか壊れていたのかもしれない。それが、悪魔の仔が生きているという事実によって、拍車を掛けてしまった。

青焔魔への嫉妬、恨みを、その仔へと。
そしてその為に、カインは騎士団に己が死んだものと思わせ、同じく、青焔魔を殺した仔を憎む悪魔、ルシファーと手を組んだ。
彼女は、そんなカインの傍にいた。狂ってからも、ずっと。

だが。

結局、そのカインも、手を組んだと思っていたルシファーに、殺された。
いや、生贄にされた。投獄され、力が戻らないルシファーに身を捧げたのだ。カイン自身も、それを望んでいた。
静かに、塵となって消えていくカインを見送った。そしてその瞳には、彼女が映っていた。

彼の森に、彼女はようやく、住むことができたのだ。
彼は笑う。最初に会ったときのように。そして、彼の体は、雪のように、舞った。

彼の最期は、誰も、知らない。
そう、彼女以外は、誰も。

風に乗って消えた雪を見て。


とても綺麗だ、とアンネルーゼは、思った。











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