そして、秋    玖




揺らめく、青。
泣かないで、と言えば、兄さんは心底不思議そうな顔をしていた。

「泣いてなんかねぇよ、泣いてるのは、お前だろ?」
「違うよ、兄さん。兄さんが、泣いてるんだよ」

よく見て、と言えば、兄さんは小さく頭を振っていた。違う、としきりに否定している。

「違う。俺は、泣いてなんかいねぇよ。だって、泣くことだって、忘れちまうんだから。忘れちまったら、泣けないだろ」
「兄さん」
「そうだよ、全部、全部忘れてしまうんだ。皆のことも、今までのことも、……お前のことだって、もうすぐ忘れてしまう。だから、別に、泣く必要なんてないんだ。そんな感情なんて、もう、俺には、」

必要ないんだ、と兄さんは笑っないていた。その姿があまりにも切なくて、胸が苦しくて、見ていられなくて、僕は兄さんに手を伸ばす。触れた頬は濡れていて、僕の手を濡らした。
兄さんは、抵抗しなかった。ただ黙って、僕の手を受け入れた。濡れた頬を拭って、そっと、額を合わせる。綺麗な青の瞳が、揺れる。そしてその中には、僕が映っている。

………僕は、いつだってこの瞳の中にいたかった。今までも、これからも、ずっと。
だから、そのためなら、どんな覚悟だってしてきたつもりだった。だけど、今、誓う。

「兄さん、聞いて」

囁く。一番近い距離にいる、たいせつな人のために。
声が震えた。みっともないくらいに。だけど、それでも今、言わずにはいられなかった。

「兄さん、僕はね。…………――――、兄さんのことが、すきだよ」

ぴくり、と兄さんの体が動く。微かに頭が動いて、僕から離れようとした。ので、後頭部に手を回して、それを阻止する。
どうしても、最後まで聞いて欲しいから。

「双子の弟として。そして、この世界中の誰よりも。兄さんのことを、愛してる」

こんな風に、誰かをすきになることなんて、なかった。誰かを一番に考えることなんて、なかった。ただただ、兄さんだけが僕の全てだった。失くしたくなくて、傍にいて欲しくて、らしくもなく、みっともないくらいに………――――愛していたのは、兄さんだけだった。

「だから、たとえ兄さんが僕のことを忘れたとしても、離してなんて、やれないよ」

あぁ、なんて酷い。
僕は、自分が酷く残酷なことを言っているのを自覚する。だけど、決めたんだ。

「兄さんが、僕のいないところで生きていくなんて耐えられない。だから、その時になったら……………――――、僕が、兄さんを殺してあげる」

僕は。

「そのために、祓魔師になったんだ」

身勝手だと、笑えばいい。だけど、譲れないんだ。
そして一緒に、背負たたかうんだ。この、残酷な運命でさえも、一緒に。
それが僕の、覚悟。兄さんを殺す、覚悟。そしてそれが、一緒にいることに繋がるのなら。
祈るように目を閉じた、そのとき。

「………―――――、お前に、俺が、殺せるのか?」

静かに。
兄さんが囁く。
僕はハッと目を開ける。そこにあったのは、熾烈に輝く、青。強く揺れる青色に、僕は頷く。

「うん」
「どんなことがあっても?」
「どんなことがあっても」
「絶対に?」
「絶対に」

「…………―――――――、おいて、いかねぇ?」

「………―――」

小さく。僕にしか聞こえないくらい、小さな声で、兄さんはそう囁いた。まるで、迷子になった子どものように。
僕は、じっと青い瞳を見つめ、そして、笑った。

「言ったでしょ? 僕を置いて行くなんて、許さないって」

そう言うと、兄さんはくしゃりと顔を歪めて、そして、一つだけ、その青い瞳から滴を零した。





……―――、雪男は、俺を殺せない。

それが俺にとって、何よりも嬉しくて、何よりも悲しい現実だった。

俺が塾生として初めて雪男と対峙したときも、そして、虚無界へと行こうとしたときも、雪男は俺に銃を向けても、撃つことはできなかった。それがとても嬉しくて、だけど同時に、そんな雪男の優しさが、悲しかった。

俺はどうしても、置いていかれる。

皆が普通に生きて、普通に死んでいく中でも、生きていかなければならない。王になるというのは、そういうことだった。
元々、悪魔は長命だ。メフィストを見ていれば分かる。悪魔と人間では、命の速度が違うのだ。

だから、俺はメフィストが提示した対価に頷いた。どうせ、俺はみんなとは生きられない。一緒にいればいるほど、独りの寂しさが辛いから。だから、忘れてしまえるのなら、それでもいいと思った。
忘れてしまえば、悲しいなんてことも思わない。寂しいなんて、感じない。それでいいのだと、思っていた。

だけど。

今、目の前にいる弟は、なによりも大切なひとは、俺を殺すと言った。置いていかないと言った。………一緒にいてくれると、言ってくれた。

分かっている。それは、いけないことなんだって。俺のせいで雪男を縛るなんてこと、しちゃいけないんだって。だけど、心は、誤魔化せない。嬉しいんだっていう感情は、否定できない。

………―――、あがけ、燐。

ジジイの声が聞こえる。
あの日から。ここで皆に俺が悪魔だと明かしたときから、ずっと聞こえていた。
なぁ、ジジイ。俺はいつだって、あがき続けるよ。だけど、なぁ、今だけ、今だけは。
……―――この感情に、身を任せても、いいかな。

そっと、目を閉じる。ジジイの声は、聞こえない。俺はじわりと滲む瞼を誤魔化すように、小さく、笑った。

「………兄さん?」

どうしたの、と雪男が囁く。目を開ければ、眼鏡の奥の瞳に、俺が映っている。それが嬉しくて、俺はやっぱり笑った。

「眼鏡、邪魔だな」

コツン、と抗議するように軽く頭突きをすると、目を瞬かせた雪男は、カッと頬を紅潮させた。ウロウロと視線を彷徨わせたあと、こほん、と一つ咳払いをして。

「………―――、いいの?」

妙に緊張した顔で、そんなことを聞いてくるから。今更だろって、俺は吹き出す。笑う俺に、ムッとした雪男は、だって、と拗ねる。

「僕は返事を聞いてない」
「そこは察しろよ。分かるだろ、双子なんだし」
「双子だからって、何でもお互いのことが分かるわけじゃないよ。分からないことだってある。僕はいつだって、兄さんのことが分からなくて、分かろうと必死なんだ」
「ふぅん? だったら、手っ取り早くお互いのことを知る方法があるぜ?」

試してみる? と見上げれば、雪男はキッとこちらを睨みつけて。

「………後悔、させてやる」

低く唸ると、ぐい、と乱暴な仕草で後頭部を引き寄せられる。お互いの呼吸が分かる距離まで、近づいて。

「兄さん、」

すきだよ、と雪男が甘く囁く。砂糖のような甘さはじわりと熱を帯びて、胸を熱くさせる。俺はその熱に浮かされるように、ふ、と熱い息を吐いて。

「俺も、すき、だ」

喘ぐように、囁いた。
そのまま引き寄せられるように、お互いの唇が触れ合う、その瞬間。




「いやぁ、実に素晴らしい!」

パチパチと拍手が聞こえ、びしり、と二人して固まった。恐る恐る視線を横にずらすと、雪男の背後でメフィストがニヤニヤとした笑みを浮かべて手を叩いていた。

「さすがですよ奥村君。いや、奥村先生も、中々のものでした。どう考えてもバッドエンドにしかならないはずの物語を、見事にハッピーエンドにしてみせるとは。いやはや、愛の力は偉大ですねぇ」
「………メフィスト……」

バッチンと華麗にウィンクを決めるメフィストに、俺は軽い怒りを覚えた。

「お前さ、空気読めよ! 見ろよ、レンだってちゃんと空気読んで大人しくしてただろうが!」
『えっ、あ、いや、その……』
「彼の場合は、空気を読んでいたというよりは、状況が飲み込みきれずにただ呆然としていただけのように思いますが……。まぁ、いいでしょう」
「よくねーよ! ……ったく。ほら、お前は俺に用事があったんだろ。さっさと済ませろよ」
「あぁ、そうですね。ですが本当によろしいので? このまま貴方の記憶を頂けば、せっかくのハッピーエンドが台無しです」
「知らねぇよ、んなこと。それに、約束は約束だ。虚無界の門を修復した代償は、払わないとな」

しょうがないことだ。こればかりは。俺は虚無界の門を制御する力は持っていても、修復する力までは持っていない。門の製作者であるメフィストに頼まなければ、門は歪んだままだ。それがどんな災厄を物質界にもたらすか分からない。それに、門の歪みは虚無界にまで影響してしまう可能性だってある。それを防ぐ為には、どうあっても門の修復が必要なのだ。その為に対価を支払うのは、妥当というべきだ。
俺が頷くと、ちょっと待ってください、と雪男が制止の声を上げた。俺をちらりと見やったのち、くるりと振り返ってメフィストを見やった。

「フェレス卿、そのことで、お話があります」
「はい、なんでしょう?」
「元々、虚無界の門を呼び出し、歪ませてしまったのは僕だ。だとしたら、責任は僕にある。対価を支払うのは、兄さんではなく、僕が支払うべきだ。………そうでしょう?」

にやり、とメフィストは笑う。待ってました、と言わんばかりに。その顔を見て、俺はぎくりとする。まさか、この男は雪男がこう言い出すのを待っていたというのか。
俺は焦る。もしそうだとしたら、雪男が払う対価も、用意しているはずで。

「では、奥村君の代わりに貴方が対価を支払うとして、一体、何を支払うというのです? 半端なものでは、吊り合いませんよ」
「…………―――」

雪男は、そこで言葉を切った。真っ直ぐにメフィストを見つめている。その横顔が、覚悟を決めたときの顔で、俺は嫌な予感を覚えた。
そして。

「僕が支払う対価は………―――、寿命、でどうでしょう?」





若君と奥村雪男が自分たちの世界に入り浸っている間、俺は呆然とその場に佇んでいた。正直、身の置場がなくて困ってもいた。
彼らが、双子以上の感情をお互いに持っていたことなど、とうの昔から知っていた。だけど、それを実際に目の当たりにすると、やはり、胸が痛む。ぐ、と握り締めた手のひらは、鋭い爪のせいで傷ができた。
痛みは、ある。だが、その傷はすぐに塞がった。それと同様に、胸の痛みはゆっくりと、安堵へと変わる。

……―――燐、俺は。

君が幸福しあわせなら、それで良かった。ずっと見守ってきた君はいつだって、苦しみながらも笑っていた。その笑顔が痛々しくて、見ていられなくて、今までずっと、傍にいた。
幸せになって欲しいと願っていた。そしてそれは、俺じゃ与えられないことも、分かっていた。
だから。

だから、君の幸せを邪魔するものを、取り除こう。


『少し、いいでしょうか』


君の大切な人が、君を殺すために祓魔師になったのなら。
俺は、君を幸せにするために、悪魔になったのだ。














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