そして、夏    弐




僕は塾生たちを連れながら、森の中に戻って行った兄さんのことを思った。
「青い夜の子」たちのことが終わってから、兄さんは少し安心したみたいだった。テトスのことも、最初は気にかけていたけれど、兄さんの心配をよそにテトスは他の塾生たちとも上手くやっているようだし、虚無界にいるペテロも大人しくしているらしい。
週に数回、報告に来る悪魔たちの話を聞きながら、兄さんは安心したり眉根を寄せていたりする。詳しい話を聞いたことはないけれど、やはり虚無界の王である兄さんには、日々色々な問題があるらしい。まぁ、配下である上級悪魔たちが兄さんの変わりに処理してくれているようだから、そこまで重大な問題は起きていないようだけど。

今やすっかり立派になった兄さんに、嬉しいけれども複雑だ。いつまでもバカなままでいていいわけじゃないけれど、立派になったらなったで寂しいというか。
こういうの、本当は神父さんが抱える感情なんだろうな、なんて思って、苦笑する。僕はいつから兄さんの保護者になったんだ、と。

テトスたちを見ながらそんなことを考えていると、突然、テトスが立ち止まった。びく!と大きく体を震わせて、自分を抱きしめている。

「テトちゃん?」
「どないしたん?」

尋常じゃない様子に、勝呂さんたちが心配そうにテトスを見やった。僕も慌てて彼に駆け寄ると、額に大量の汗を滲ませて、がたがたと歯を鳴らしていた。

「どうしたんです?どこか具合でも……―――」

僕は様子を見ながら、まさか、と思う。
テトスは、少し前までは悪魔の力を持った「青い夜の子」だった。その力は今はなく、奪ったゆえの副作用も出ていなかった。「智の王」の研究の末、副作用自体、起こることはないとされていたけれど、もし、という場合もある。
僕がテトスの様子を冷静に伺いつつも、ひやりと背中に冷たい何かが通るのを感じた。
だが、テトスはぐっと僕の腕を掴んで、青白い顔のまま、それでも必死に僕を見上げて来た。

「………っ、あいつ、だ」
「え?」
「あいつが、いる」
「……あいつ?」

あいつ、とは一体誰だ。
疑問に思いつつも、じっとテトスの様子を伺う。テトスはブツブツと怯えたように呟いていた。

「なんで……?あいつは、捕まった、はずなのに……。どうして、物質界に……ッ?……あ……っ、そうだ、王様………ッ」
「!」

は、と顔を上げたテトスに、一瞬言葉を無くした。
「王様」と彼が呼ぶ人は、ただ一人。しかしここ最近では、兄さんのことをそう呼ばないように彼自身が注意していることを、僕は知っていた。
だが、咄嗟にそう出てしまったということは、それほどまでに、パニックになっているということで。
テトスはきょろきょろと周囲を見渡して、兄さんがいないことに気づいて焦った顔をしていた。

「王様は!?王様は今どこにいるの!?」
「……そ、れは……」
「っ、ま、さか……王様……気づいて………?っ、ダメだ!早くっ……」

テトスは慌てて立ち上がろうとするが、力が入らないのかガクリと膝を付いた。

「テトちゃん!」
「あかんよ、無理したら!」
「で、でも………このままじゃ……っ」

必死に止める勝呂さんたちの制止を振り切ろうとするテトスに、どうする、と汗を滲ませた、その時。

ドォオオン!という爆音が、森の奥から響いてきて。ハッと顔を上げれば、もうもうと煙が上がっていた。

「な、何や?!」
「っ、すみません、二人とも、彼のことを頼みます」
「え、あっ、先生!?」

僕は腰の銃を抜きながら駆け出した。ざわざわと、嫌な予感が頭を占める。
テトスの様子と、さっきまで隣にいた兄さんの笑み。
まさか、兄さんに何か……―――!?

僕は祈るように、銃を握る手に力を込めた。




森を抜け、煙の立つ方へと駆けた僕は、向かっている場所が訓練でよく使われる広場だということに気づいた。
もしかしたら、他の訓練があっているのか、と思ったものの、こんな派手な訓練をするはずがないし、確か今日は僕達の他にこの森を使っている人はいなかったはず。
一瞬緩んだ気を、もう一度引き締める。そして、徐々に広場に近づくと、僕は速度を緩めて広場の方を伺った。かちり、と安全装置を外して、そっと木の陰へと身を潜める。
ごく、と唾を飲み、ゆっくりと銃口を広場へと向けて。

は、と息を呑む。


煙の晴れた広場にいたのは、三人。

一人は、白と黒の翼を持ち、上空に浮遊している男。
そしてもう一人は、その男を見上げている、着流し姿で両目に包帯を巻いた男。

そして………、着流し姿の男に抱えられて、ぐったりとしている、兄さんがいて。

「………っ!」

僕は条件反射的に動いた自分の腕を、引きとめた。状況もよく分かっていないのに銃を撃つのは、危険すぎる。
冷静になれ、と自分に言い聞かせつつ、じっと兄さんの様子を伺った。
すると、浮遊している方の男が、着流しの男を見下ろして目を細めていた。

「………なるほど、随分と懐かしい顔だな。赤い蛇……いや、今は『風の王』オリエンス、というべきか」
『………貴様こそ、何故なにゆえ物質界にいる?脱獄したお前を、『監獄の母』が探し回っていたぞ。それに………―――、我らが主を襲うとは、一体どういう了見だ』
「は!愚問だな!私はソイツを主とは認めていないのだから、当然のことをしたまでだ。しかし、お前たちは何故ソイツを主と呼ぶ?私たちの主はただ一人、青い焔を纏いし気高い存在、青焔魔様だろう?何故……―――そのような劣等種を主と呼ぶ?」
『貴様……!主を愚弄するとは正気か!今の言葉、取り消すなら今の内ぞ!』
「取り消すも何も。私は今まで、ソイツを主と思ったことは一度もない」
『………ッ!』

ぎり、と奥歯を噛み締めながら、着流しの男はぐっと兄さんを抱く腕に力を込めた。

『貴様が何を考えていようが、主を守るが我らの務め。貴様は今ここで、我が成敗いたす!』
「……、ふ。確かに、今ここでお前と戦うことは簡単だが……―――、今はまだ、その時ではない」
『何……ッ』
「ソイツが起きたらこう伝えろ、『ゲームは始まった』とな」
『ま、待て……ッ!』

着流しの男が腕を伸ばすが、その前に浮遊していた男はふっと空気に溶け込むようにして消えていった。

『逃がした、か』

チッ、と舌打ちした着流しの男は、そっと腕の中にいる兄さんを見やった。

『主………』

祈るようにその名を呼んで、不意に視線をこちらに向けてきた。

『何者だ、出て来い』
「!」

包帯を巻いているはずなのに、真っ直ぐにこちらを見ている。僕は息を呑んだものの、ゆっくりと踏み出した。銃は向けたままでいると、彼はハッとした顔をして。

『貴様、まさか、主の弟か?』
「………そうだ」
『………―――』

僕が頷くと、彼は複雑そうな顔をした。なんだ、と眉根を寄せていると、彼は残念だというようになあからさまな態度で。

『人間というのは、理解できぬ生き物だ。愛らしい我の主とは似ても似つかぬ男が双子の弟だというのか……』
「………どういう意味だそれは」

はぁ、と深々とため息を吐く男に、ひく、と口元を引きつらせた。しかしこの男、目に包帯をしているのに僕の姿が見えているのか。
疑問に思っていると、男は兄さんを腕に抱えたまま立ち上がった。

『我が名は『風の王』オリエンス。主をお守りする八候王の一人だ。故に、その銃を下ろしてもらおうか』
「……、その前に、兄さんを放せ」
『それはできぬ。主を休める場所までお連れするまでは』
「………じゃあ、付いて来い。僕達の部屋まで案内する」
『僕達、だと………?貴様、主と同衾しているというのか!』
「どッ、違うッ!同室なだけだ!」

くわ、と吼えた男、『風の王』オリエンスに、ぎょっとしつつ否定した。同衾する間柄になれたらいいとは思っているが、まだそこまで至っていないのが現状で。その辺りには正直触れて欲しくない、というか。
内心で舌打ちしつつも、とりあえず旧男子寮へと向かう為、オリエンスを伴って歩を進めた。

何が何だか分からないが、何かが始まろうとしていることだけは、感じ取りながら。




旧男子寮に戻ると、神妙な顔をしたレヴィアタンが出入口で待っていた。『風の王』オリエンスに抱えられた兄さんに顔色を変えたものの、無事だと知ってホッと安心していた。しかしすぐに、苦々しい表情を浮かべて。

『やはり、一足遅かったか………』
『『蛟の王』よ。今回は我が不穏な空気を察知できたから良かったものの、恐らく次はない。……なにせ、相手は彼奴だからな。……気を、引き締めねばなるまい』
『あぁ……分かってる』

こくりと頷いたレヴィアタンは、目を閉じたままの兄さんを見て、きゅっと眉を寄せていた。

『若君………―――』

兄さんを呼ぶ声には、複雑な色が混じっていた。しかしそれを押し殺すようにして、オリエンスを中へと案内していた。
後に続こうとした僕は、しかし、レヴィアタンに引き止められる。

「なん、」
『貴様に、話がある』

抗議しようとする僕を遮って、厳しい顔つきでレヴィアタンはそう言った。僕はオリエンスの背中を見やったものの、レヴィアタンの様子に一つ頷いた。

「………分かった」

話せ、と先を促すと、レヴィアタンはゆっくりと口を開いた。

『………前に、話したことだが。今、虚無界は二つの派閥に分かれているのは、知っているだろう?今の青焔魔、いや、若君を主と認め、王としてお守りしている『公守派』と、若君を王と認めず反乱している『反乱軍』。この二つは若君が虚無界に来てからずっと交戦状態にあることも、貴様には話しただろう?』
「あぁ。でも……―――、この前の「青い夜の子」たちとの決着と同時に、その『反乱軍』の親玉は捕まったって聞いたけど?」
『………そうだ。確かに、捕まえた。いや………捕まえたはずだった』
「どういう、ことだ……?まさか……―――」
『そうだ。その『反乱軍』の長、………前青焔魔様の側近にして、天からの追放を受けた堕天使、ルシファーは、俺たちの拘束を振り払い、脱獄した』
「……!」

ということは、僕が見た黒と白の羽を生やしたあの男が、ルシファーだというのか。

『ルシファーは、前青焔魔様に異常なまでの忠誠心を持っていた。だから、その青焔魔様を殺した若君を、憎んでいる』
「なるほど………」
『脱獄した後も、俺たちは必死に奴の行方を探っていた。だが、まさか物質界に来ていたとは誰も思いも付かなかった』
「?何故だ?ルシファーが兄さんを憎んでいるのなら、物質界に来るのは当然だと思うけど?」
『ルシファーは天から追放された堕天使だ。……天から堕天の印を押された者は、虚無界以外では存在すらできないとされていた。それなのに、ルシファーは物質界に現れた。………―――、つまり物質界に、ルシファーを存在させる「何か」がある』
「!」
『貴様にルシファーのことを話したのは、そのことがあるからだ。……そうでなければ、若君の意向を無視して貴様に話すものか』
「つまり、その「何か」を僕に探れ、と?」
『………―――』

レヴィアタンは答えなかったけれど、僕は何となく察していた。
兄さんの考えも聞かずに、僕に話したということは、つまり。

「正十字騎士団の中に、その「何か」があるってこと、か」


騎士団内部に、ルシファーに協力する誰かが、内通者がいる、ということだ。




BACK TOP NEXT