そして、夏    肆




「なぁなぁ、レン。俺、いつまで物質界こっちに居ればいいんだ?」
『若君、先ほど説明致しましたとおり、こちらにはルシファーがいるのです。奴を捕まえるまでは、物質界で行動しなければなりません』
「うー……、でもさぁ。それなら何もこんなこそこそする必要ないだろ?アイツの『気』は分かり易いし、現れたとこを一気にばーっとやっちゃえばさ」
『ここは物質界なので、そういう訳にはいかないのですよ。虚無界でしたら焔の影響があったとしても大丈夫ですが、物質界で焔を放てば大惨事になりますからね』
「……ふぅん?」

面倒だなぁ、とぼやきながらも納得したのか、ごろりとベッドに横になる兄さん。その背中を、険しい顔つきで見やるレヴィアタン。そしてちらりと僕を見やって、ふるふると首を横に振る。
その反応に、僕は人知れず、はぁ、とため息を吐いた。

一体、何がどうなっているだ、と。




「なんで、人間がここにいるんだ?」

兄さんの、心底不思議そうな言葉に、その場にいた全員が凍りついた。よほどのことがなければ驚くことのないフェレス卿でさえ、ぽかん、と呆気に取られている。

『わ、若君?い、今、なんて……?』
「え?や、だから、なんで人間がここにいるのって……」
『に、んげん、って………若君こそ、何を言ってらっしゃるんですか?この男は、若君の……』
「???」

きゅ、と眉根を寄せて、何言ってんだ?と言いたげにレヴィアタンを見上げる兄さん。その顔は嘘を言っているようには見えなくて、つまり、本気で兄さんは、僕のことをただの「人間」としか見えていないってことで。
僕は混乱しつつも、頭の冷静な部分が現状を訴えかけた。
この、症状は……―――。

「記憶喪失、でしょうね」
「フェレス卿……」

す、と僕の傍にやってきた彼は、そっと僕に囁きかけた。僕も同感だとこくりと頷く。

「脳に何らかのダメージがあった時に引き起こる、一時的な記憶障害。今の兄さんは、おそらくその記憶障害に陥っている可能性がありますね」
「ええ、それも、あの様子では虚無界に行く前、そして行って帰ってきた後、つまり、物質界の記憶を丸々無くしていると言っていいでしょうね。しかし……物質界のみ、というのはどうも可笑しい。これはルシファーが関わっているとみて、間違いないでしょうね」
「………ルシファーが、兄さんの記憶を操作した、と?」

フェレス卿は答えなかったけれど、十中八九、そうだとしか思えない。
ルシファーは去り際に言っていた。「ゲームは始まった」と。この兄さんの記憶喪失も、そのゲームの一つというわけか………!

ぎり、と奥歯を噛みしめる。苛立たしい。何が、ゲームだ。完全に人をおちょくっている。

「………大丈夫ですか、奥村先生。目が据わってますよ」
「僕は冷静ですよ。ただ、腸煮えくりかえってるだけですので」
「……、そうですか」

ひょいと肩を竦めたフェレス卿は、レヴィアタンとオリエンスに囲まれて説明を受けている兄さんを見た。おそらく、色々と察しているであろう彼らに兄さんのことは任せたほうが良さそうだ。
何せ、僕を見る兄さんの目は、明らかに他人、いや、異種族を見る目だった。あれは自分が完全な悪魔であると思っているという証拠だ。
人間である僕がうかつに近づけば、きっと、警戒を露わにしてしまう。

冷静に考えつつも、やはり、混乱している自分を自覚して。
これ以上ここにいたら自分を保てそうになくて、僕はそっと部屋から抜け出した。

その背中をじっと見つめる、兄さんの視線には、気づかずに。


記憶喪失になった兄さんは、とにかく物質界のことは何も覚えていなかった。人間関係も、物質界の物の名も。何もかも。
そんな兄さんの補助として、レヴィアタンとオリエンスが付くことになった。それは良かったものの、記憶のない兄さんに対して、僕のことを一から説明しなければならなかった。ので、僕は正十字騎士団の祓魔師で、ルシファーが逃亡して物質界に逃げ込んだので、一時的に協力している、という形になった。まぁ、嘘はついていないし、兄さんもさほど気にした様子はなく、ふぅん?とだけ言った。
ただ、虚無界の王である兄さんが物質界にいるのは問題があるので、僕が監視という名目で付いている、ということも。まぁ、それも嘘ではない。

兄さんは説明する僕を興味なさそうな顔をして見ていた。その顔はいつも通りの兄さんで、僕が肩の力を抜いた、その時。
兄さんは、それで?と唐突に問いかけてきて。

「俺、お前の名前、まだ聞いてねぇんだけど?祓魔師さん」
「………っ」

分かっていたこととはいえ、動揺した。それが伝わったのか、兄さんは怪訝そうな顔をしていた。

「おい?」

心底不思議そうな、青い瞳。僕はその瞳から目を逸らせて、カラカラになった喉を必死に震わせた。

「………。僕の名は、奥村雪男です」
「オクムラユキオ?長げぇ名だな。んー……じゃあ、雪でいいや。よろしくな」
「ゆっ………、あ、はい、よろしく、お願い、します」

こてん、と首を傾げて、ゆき、とそう僕を呼ぶ兄さんが、なんだか別人のように見えて。
雪男、と呼ぶ口調とも、全然違うのに。なのに、なぜか、どきり、としてしまって。
なんだこれ、と頭を掻き毟りたい心境に駆られていると、隣でレヴィアタンは笑っていた。何だか他人事のようなその笑みに、じとりとレヴィアタンを睨む。

「……何、笑ってるんだ?」
『え?あ、いや………、少し、昔のことを思い出しただけだ。………初めてレヴィアタンとして若君の前に立った時のことを、な』
「………?」

くすくす、と笑うレヴィアタンは、そっと目を細めて。

『奥村雪男。記憶がないからといって、悲観することはない。若君は………どんなことがあろうと、若君だからな』
「……そんなこと、君に言われなくても分かってる」

何だか慰められているような気分になって、それが嫌で突っぱねれば、レヴィアタンは、そうか、と笑っていた。
全くほんとに、この目の前の男は人間らしい悪魔だ。そう心の中で悪態をつきながら、それでもざわついていた心が少し落ち着くのを、感じた。

そしてそっと目を閉じて、一つの決意をする。




こつん、こつん、と足音だけがその場に響き渡る。
ひたすら、闇だけがこの場を支配している。足元さえ定かではないその場所を、しかし明確な足取りで奥へと進む。進んで進んで、ぴたり、と立ち止まる。
こつ、と靴音が最後の音を立てる。

「………―――何の用だ」

ひやり、と冷たい声が響いた。自分の声だ。しかし、その声は遠くまで響いて、まるで自分の声じゃないような錯覚を抱かせる。
そして、背後で聞こえたクツクツという笑い声もまた、空気を震わせて。

「相変わらず、ツレねぇ野郎だな。普段の猫ちゃんっぷりの方が、俺は好みなんだけどな」
「………―――」

カチリ、という固い音とともに、ふわりと香る煙草の匂い。僕はそれに眉根を寄せた。

「僕の傍で煙草は止めろと言ったはずですが。匂いが移ったらどうするつもりです」
「は、そりゃあいい。匂いに敏感な「お兄ちゃん」にたっぷり見せつけてやれる」

は、と乾いた笑みを零した相手に、僕は腰の銃を抜いた。振り向き様に標準を向けて、ぴたり、と相手に額に銃口を突き付ける。
そして相手も、僕に銃口を向けていて。

「………―――いい加減、俺のもんになったらどうだ?可愛がってやるぜ?」
「結構ですと、ずいぶんと前からお伝えしていますが?」

お互い、安全装置は外した状態だ。そのまま、お互いに銃口を向けたまま、睨み合っている。
しばらくの間そんな状態が続いたものの、相手が先に苦笑しつつ銃を下したので、僕も同じように銃を下した。

「ほんっと、ガードが堅ぇな」
「貴方は節操がなさすぎるんです。僕は普通だ」

吐き捨てれば、怖い怖い、と茶化したように肩を竦めている相手を、僕は胡乱げに見やった。
祓魔師のコートはボロボロに破れていて、シャツのボタンは留めておらず、ネクタイさえしていない。金髪の髪は肩まで無造作に伸ばしていて、サングラスをかけている。耳には銀のピアスが大量に光っていて、口には煙草をくゆらせている。
おおよそ、聖職者と呼ぶにはほど遠い姿をした男。僕よりも長身の彼は、背中に背丈と同じくらいの銃を背負っていた。

「ったく、せっかく長期任務からの帰りなんだから、もう少しデレてくれてもいいんじゃねーの?」
「デレを求めているのなら、他の方にしてください」
「お。もしかして、妬いて、」
「それはないです」

僕は男に背を向けながら、再び歩き出した。背後で男が付いてくるのを感じ取ったが、無視する。
そのまま少し歩いて行くと、今度はひゅっと風を切る音が聞こえてきて、手に持っていた銃でソレを打ち抜く。カラン、と音を立ててソレは足元に落ち、背後で男がひゅう、と口笛を吹いた。
僕は落ちたソレ、小型ナイフを見て、はぁっとため息を吐く。同時に、今度は左へと銃口を向けて。

「……貴女も、僕に何の用ですか」
「なぁんだ、気づいてたの?つまんなーい!きゃはは!」

向けた銃口の先、姿を現したのは、一人の少女だった。
騎士団の制服を身に着けたその少女は、その銀色の長髪を揺らして声高く笑っていた。

「ひっさしぶりぃ。ねェねェ、お兄ちゃん元気ィ?今度紹介してよ。アタシ、ああいうのタイプなんだよぉ。あの可愛い顔、ぐっちゃぐちゃに啼かせたくなっちゃうの」

銃を向けた僕の腕に懐いて、ぺろりと舌なめずりをする彼女を、僕は黙って見下ろす。すると僕の目を見た彼女は、きゃはは!と笑って。

「いいね、いいね、その目!ぞくぞくしちゃう」
「僕は先を急いでいるので、離してもらえますか」
「んー、どうしよっかなぁ………」

意味ありげにこちらを見やって、腕に体を押し付けてくる彼女。さてどうすべきか、と内心で考えていると、彼女はぐっと背伸びをして僕の耳元に唇を寄せた。

「前みたいにシてくれたら、離してもいいよぉ?」
「………――――――」

ねっとり、と耳に舌を這わせ、甘ったるい声で囁く。とろりとした蠱惑的な色を宿した赤い瞳が、こちらを試すように見上げてきて。

「………すれば、離してもらえます?」
「もっちろん。アタシ、嘘は付かないよ」

にっこりと笑う彼女は、たしかに、嘘は付かない。いや、付けない、というべきか。
僕は内心ではぁ、とため息を吐きつつ、彼女の腰を引き寄せた。

「約束、ですよ?」

そう囁いて、彼女に顔を寄せて……―――。

「そこまでだ、二人とも」

パン、と手を叩く音が響いて、僕は彼女から体を離した。彼女も、むっと唇を尖らせつつも、僕から離れて行った。
かつん、と固い音を立てて、声の主は僕たちの前から現れた。
ぴっしりと祓魔師の服装を着こなした彼女は、僕たちを見やると淡々とした口調で。

「ふざけるのは構わんが限度は弁えろ。いいな、アンネルーゼ」
「はぁい」

少し拗ねた顔をしつつも、ちゃんと返事をする。彼女、アンネルーゼがそんな風に殊更な態度をとるのは、目の前の人物だけ。
紫色の長髪に同色の瞳を持つ、無表情の彼女だけだ。
彼女はぐるりと僕たちを見渡して、なるほど、と言った。

「こうして我らが揃うのは約一年ぶり、か。久しいな」
「オイオイ、俺たちは久しぶりに会ったからって、そう懐かしむ間柄でもねぇだろ?マリア」
「………そういうお前はまた派手にやってくれたそうじゃないか、安部野洲郁あべのやすくに
「あーはいはい、すみませんね。それと、フルネームで呼ぶの止めてくれねぇか?その時代錯誤の名前、キライなんだよ」
「ふ、相変わらずだな。………そして、奥村雪男。お前もまた、ずいぶんと久しく顔を見ていなかったが、どうだ?変わりはないか」
「えぇ、おかげさまで。貴女様もお変わりないようで安心しました、マリア様」
「よせ、私たちは対等だ。様などの敬称はいらん」

彼女は淡々と、表情を変えることなくそう言った。

「我ら四大騎士は、それぞれ釣合のとれた関係でなければならない。三賢者、および聖騎士の名において、な」

四大騎士。
聖騎士の次の権力を持つ、祓魔師。

一人、………―――聖母、マリア・イヴ・エルンスト。
一人、………―――悪魔憑き、アンネルーゼ。
一人、………―――陰陽師、安部野洲郁。

そして、……―――僕、奥村雪男。

現在の四大騎士を司る四人が集結する。





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