そして、夏    陸




次の日、僕は早朝から寮を出た。寮を後にしながら、兄さんの顔をちゃんと見て、「おはよう」だとか「ただいま」だとか、そんな言葉を言い合っていた頃が随分と遠くに感じた。実質、三日ほどしか経っていないのに。そんな風に感じる自分に、僕はそっと苦笑を漏らした。

今は、兄さんの傍に居ないほうがいい。

僕自身、記憶がないからと言って、兄さんが兄さんであると断言できる自信はある。たかが記憶を失くしたくらいで、と思う部分もある。
だけど……―――それでも、記憶のない兄さんの瞳は、いつもとは違う真っ直ぐさで僕を見る。あれは、そう。赤ん坊に似ている。無邪気で、無垢。引き込まれそうなその瞳に、何だか自分の醜さを暴かれてしまいそうで、つい、目を逸らしてしまう。

だから、というわけではないけれど。僕は兄さんが記憶を失くしてから、朝は早く出るようになったし、夜は兄さんが寝付いてから帰るようになった。

あぁ、結局。
僕は兄さんが記憶を失くしたことに、大丈夫だと言いつつもショックを受けているんだろう。
だから、「僕を知らない兄さん」を突きつけられるのが嫌で、避けるような真似をしているのか。

「……ほんと、ダメだなぁ」

僕は、爽やかな早朝の晴れ空の下、重々しいため息を吐いた。
気分は、重い。しかし、やることはやらなければならない。それが今の僕にできる、精一杯のことだからだ。
懐から携帯を取り出しながら、さてどう話そうかと考える。しかし、相手は遠まわしな言い方をしたところで核心にしか興味がないだろうから、ぐちゃぐちゃと考えたところで無駄だろう。

そういうところは、そっくりだ。

小さく笑いながら、僕はボタンを押した。プルル、という呼び出し音のあと、すぐに相手は出た。

「あぁ、早朝からすみません。……お話が、あるんですが」




正十字学園の、中心から少し外れた場所。学園の中庭ほどではないが、憩いの場所がある。小さな噴水やベンチがあるその広場は、今は誰もいない。
少し早かったかな、と思いつつ、手短なベンチに腰を降ろす。電話をしてからこちらに向かったので、僕の方が遅く着くかと思っていたけれど、と周囲を見渡していると、僕が来た道の反対側から、誰かが走ってくるのが見えた。その人物はジャージ姿で、耳にはイヤフォンを付けて走っていた。姿だけを見れば、早朝のランニングをする好青年だが、顔がそれを裏切っている。
目つきが悪く、前を睨むようにして走るさまは、まるでどこぞのヤンキーだ。本人に言ったら、それこそ目を吊り上げて、アンタの兄貴よりはマシやろ、と言われそうだ。
口調まで思い浮かぶようで小さく笑っていると、彼は僕の傍まで走ってきた。ふぅ、と一つ息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭っていた。

「すんません、待たせてしもうたみたいで」
「いえ、急にお呼び立てしたのはこちらですから。はい、これ」

僕は手に持っていたミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。彼はそれを受け取ると、黙って封を切って口に含んだ。
ごく、ごく、と勢いよく半分まで飲み切ると、ふぅっと一つ息を吐いて、彼、勝呂君は淡々と口を開いた。

「それで?今度は何があったんですか?」

ちら、とこちらを見やった彼は、何でもない口調でそう言った。まさに単刀直入。猪突猛進な兄さんとそっくりだ。
僕は眼鏡を押し上げつつ、大した用件ではありませんが、と前置きをする。

「最近、兄さんの様子がおかしくてですね。問い詰めたところ、部屋の中に蜘蛛がいるらしいのですよ」
「………ほぉ、蜘蛛、ね。それで?その蜘蛛はどないな蜘蛛なんです?」
「それが、どうやらその蜘蛛は、夜にならないと出てこないそうで。二人で何とか捕まえられないかと思案しているところなんです。何か、いい案はありませんか?」
「蜘蛛、言うたら、俺やのうて志摩の管轄やないですか?アイツの虫に対する執念は本物やからな」
「あぁ、志摩君ですか……。いや、でも彼はいざとなったら虫を見て逃げ出しそうですし。それに、君に相談した方が早いと思いまして」
「……、なるほど」

彼は眉間に眉根を寄せて、前方を睨んだ。メンチを切っているようにも見えるが、眉間に皺を寄せるのは彼が考え事をするときの癖らしい。
しばらくの間考えこんでいた勝呂君は、それならば、とペットボトルに蓋をした。

「今度、杜山さんに話を聞いておきますよ。杜山さんも、何か蜘蛛対策について知ってはるかもしれへんし」
「すみません」
「謝ることありませんよ、どうせただの蜘蛛退治や。………それより、アンタの方が俺は心配や。自分でも気づいてはるんでしょう?顔色、最悪ですよ」
「………、はは、さすが、ですね」

一通り話し終えて、僕はふぅ、と小さく息を吐いた。そんな僕を、勝呂君は呆れたように見ていた。そして、少し考える素振りをした後に、僕の隣に腰を落ち着けた。そして、ぽつり、と小さな声で囁いた。

「奥村は、知ってるんですか?先生のこと」

何を、とは言わなかったものの、僕は彼の言いたいことを正確に感じ取って、こくり、と頷いた。

「………、薄々は、感じてるんじゃないかとは思ってます。僕からは全く話していないけれど」
「なんで、話さんのです?別に、隠すようなことでもないでしょう?」

責めるようなその声色に、僕はクスリと笑った。何、と眉根を寄せた勝呂君に、いえ、と制して。

「勝呂君。全てを告げることが、全てじゃないんです。僕達の場合は、特に。兄さんが僕に言えないことがある分、僕にも兄さんに言えないことがある。人間、嘘も方便と言うでしょう?兄さんは僕を信じていると言ってくれたけれど、僕は兄さんのことを信じちゃいない。そうして、僕達は釣り合いが取れているんです」
「………、分かりません」
「でしょうね。兄さんも言ってました。「雪男の言葉はわからないときがある」って。でも僕だって、兄さんの言葉が分からないことが多々ある。……でもそれで、いいんじゃないかな、と思うんです」

双子に生まれて、双子として育った。離れていた期間もあったけれど、僕達は双子だった。
でも双子だからこそ、お互いが全く別の人間なのだと、すぐに気づいた。同じ血を持っているからこそ、相手が決定的に自分とは違うのだと、理解する。

違う人間だからこそ、大事なのだと、知る。
それはとても、とても大事なことなんだ。

僕は脳裏に兄さんの姿を思い浮かべつつ、目を閉じてぎゅっと手のひらを握り締めた。

「勝呂君。兄さんは、今回は動けません。事情は、必ず話します。だから………―――」
「ほんま、アンタら兄弟揃いも揃って大馬鹿や」

力を貸して欲しい。そう言おうとした僕を遮るように、勝呂君は殊更大きな声でそう言った。ぽかん、と呆気に取られる僕を、彼は真っ直ぐに見返してきて。

「水一本じゃ足りひん。蜘蛛退治が終わったら、皆で祝杯や」

もちろん、お前ら兄弟のおごりで、や。
そう言って笑った勝呂君に、僕は目を細めて頷いた。

「必ず」




勝呂君と別れた僕は、そのままフェレス卿の元へと向かった。いつも通り、彼から任務を言い渡される。
僕はその内容を見て、ひっそりと眉根を寄せた。

「………、中期任務、ですか」
「ええ。約一週間ほどになりますが」

僕は手渡された資料を見下ろし、一週間、の文字に目を細める。任務の内容としては、普段とほとんど変わらない。だが規模が大きい為か、一週間は現場に滞在することになる。
普段だったら、さして気にも留めないが、しかし………―――。

「タイミングが、良すぎますねぇ」
「……ええ」

ぽつり、と独り言のように零したフェレス卿に、資料に目を落としたまま頷いた。

「タイミングが良すぎて、疑ってくれと言わんばかり。これじゃあ、下手な芝居を打たれるよりも性質が悪い」
「まぁ、そうですね。これで僕は動けなくなったも同然だ」

ひょいと肩を竦めれば、フェレス卿はおや、という顔をした。そして、くくく、と小さく声を上げて笑い始めた。面白くて仕方ないと言わんばかりに。

「なるほど?奥村先生は、チェスがお好きのようで。私は断然、オセロの方が好みですが」
「兄さんもです。兄さんも、どちらかと言えばオセロの方が好きみたいですよ。単純でいいって」
「単純、ね。確かに、オセロは単純だ。黒と白と、それしかない。チェスのような入り組んだゲームは、奥村君には難しいでしょうね」
「ええ、ですから、ここは僕の領分だ」

資料をフェレス卿に返しながら、僕はにっこりと微笑んだ。ひく、と相手の口元が引きつる。そしてぼそりと、ますます可愛げがなくなってしまって、と何故か嘆いていた。

「若かりし頃の藤本にそっくりですよ、貴方。嫌味なくらいにね」

どういう意味だと思ったが、意外な言葉に少し驚いた。
いい意味で、だが、神父さんに似ているのは兄さんのほうだと思っていたし、周りだってそう感じていたはずだ。あの、独特の雰囲気を受け継いだのは、兄さんだ。小さな頃、教会を離れた僕とは違って、兄さんは神父さんに育てられたのだから、それは当たり前のことだ。
僕は、主に祓魔師関連でしか神父さんとは関わっていない。いや、それでも十分なくらいだけれど、でも一緒に過ごした時間が多いのは兄さんだろうし、第一、僕はあんなに大雑把な人間じゃない。
そういうのが顔に出ていたのだろうか、フェレス卿はニヤニヤと僕の顔を見て笑っていた。

「藤本は、あれでいてオセロよりも将棋が得意でしたよ。カードゲームなら、ブラックジャックよりもポーカー。まぁ、やり方はえげつなかったですが」
「……」

何となく、目に浮かぶようだ。
複雑な心境になっていると、それが親子と言うものでしょう、と悪魔の男は得意げにそう言った。




「中期、任務?」

フェレス卿からの任務命令を受けたのち、僕は寮に帰宅した。今日はいつもよりも少し早めに戻った為か、兄さんはまだ起きていた。そして自分が任務のために一週間ほど出ることも告げた。
兄さんは、口の中で転がすような言い方をして、ちゅうきにんむ、と繰り返す。意味は分かっていないだろうけど、僕がしばらくいないというのは分かるらしい。ふぅん?と興味のなさそうな顔をしていた。

「だからしばらくの間は、ここでお留守番をお願いします」
「それじゃあ、今とあんまし変わんねーじゃん。お前、いつっつも任務だー授業だーってほとんど部屋にいねーし」

唇を尖らせて、拗ねたように兄さんはそう言った。まるで記憶があるときのような仕草に、つい、どきり、としてしまう。
言葉に詰まっていると、雪?と不思議そうに兄さんは僕を見上げて来た。その硬い呼び方に、ハッと我に返る。

「と、とにかく、貴方は大人しくしていて頂ければいいので。何かあれば、フェレス卿に伝えて下さい」
「分かってるよ。お前に言われなくても。どーせ、俺、ここから出られないし」
「?出られない?」

ぶす、と頬を膨らませる兄さんに、首を傾げる。出ないのではなく、出られない、という言葉が妙に引っかかった。不思議そうな僕に、兄さんはキッとこちらを見上げてきて。

「そっか、お前には視えねぇのか。コレが」

言いながら、兄さんは寮の出入口へ向かった。そして、ドアノブへと手を伸ばして……。
バチィ!と軽い電気が走って、兄さんの手は扉からはじかれた。

「え?」
「あー、くそ、忌々しい!」

チッと弾かれた手を見て舌打ちをする兄さん。どういうことだ、と兄さんの両脇にいた二人に説明を求めると、レヴィアタンが苦笑を漏らしていた。

『兄上が、この間のように暴走されては堪らないということで、一時的に若君をこの寮へ封じる結界を張ったらしい。若君以外なら出入りは自由だが、若君は外へと出ることはできない』
『まぁ、主の性格を見切った兄上のご判断だろう』

うんうん、とオリエンスが頷いている。
なるほど、やんちゃな兄さんが暴走せぬよう、フェレス卿は策を講じてくれていたらしい。今のところ兄さんだけが僕にとっての不安要素だったので、結界があって安心した。

「あんのピエロ野郎。俺がこういうの、苦手だって知っててやるから性質悪りぃんだよ」
『若君は、いつでも実力行使ですからね。仕方ありませんよ』
「っ、なーなー、エンー。俺、外に出たいなー」

兄さんはレヴィアタンが味方に出来ないと悟り、オリエンスに縋りついた。彼は腕に縋ってくる兄さんをじっと見下ろしたあと、ぐっと口を手のひらで覆うと勢いよく兄さんから視線を逸らした。どうやら、泣いているらしい。

『主にお願いされるなど……ッ、我、一生の人生に悔いなし………―――ッ!』
「………」

くっと拳を握り締めるオリエンスに、正直ドン引きした。
何だこの悪魔は、と口元を引きつらせていると、レヴィアタンがこっそりと僕に耳打ちした。

『オリエンスは、虚無界ではずっと東の地域の守護を任されていたからな。若君と話す機会が少なかったんだ。これくらい、許してやれ』
「いや、許すも何も………」
『まぁ、少々性格に難はあるが、別に問題はないだろう』
「や、十分に問題あると思う」

レヴィアタンに冷静に突っ込みつつ、兄さんの方は大丈夫だな、とホッと安心した。そして、レヴィアタンへ声を潜ませて。

「レヴィアタン。君に、頼みたいことがあるんだ」
『……それが、若君のためになるのなら、聞こう』

正直な答えに笑いながら、もちろん、と頷いて。

「虚無界から、呼んできてほしい人材がいるんだ」








BACK TOP NEXT