そして、夏    漆




夜。
俺は妙に寝付けなくて、のっそりと起き上がった。ベットの両脇には、レンとエンが腕を組んで目を閉じていた。横にはクロがいて、丸くなって寝息を立てている。
その可愛らしい姿に目を細めつつ、部屋の中を見渡した。

小さな部屋だ。ベッドと、机と、椅子。クローゼットはあるけれど、でも、物が少ない部屋。しかし、誰かが住んでいるのだと、分かる部屋。

「……―――」

周囲を見渡しながら、ふと、向かい側のベッドを見やった。そこは布団が山になっていて、かすかに上下していた。
俺はそっと寝ている彼らを起こさないよう、ベッドから降りた。途中、ギシと床が音を立ててひやりとしたけれど、誰も起きる様子はない。
ほ、と安心して、ゆっくりとベッドへと近づく。そして眠っている顔を覗きこんだ。

綺麗な顔だ、と思う。白い肌に、長い睫。今は閉じているけれど、開いた瞳は綺麗な青緑色だ。眼鏡越しにこちらを見るその瞳は、しかし、いつも複雑な色を宿している。気づかないフリをしていたけれど、彼はいつだって、俺の姿を目で追っていた。ここ数日、ずっと。
何かを言いたくて、でも、飲み込んだまま視線を逸らす。その繰り返しだ。

「…………、雪」

ほんとう、名の通りだ、と小さく笑う。そっとその額に手を伸ばそうとして、止めた。




朝。
目が覚めると、もうアイツは出たあとだった。挨拶くらいしていけばいいのに、と思ったけれど、アイツが忙しいのはここ数日で分かっていたことだし、仕方ない。

『おはようございます、若君』
「あぁ、おはよう」

寝起きでぼんやりとする頭で空のベッドを見やっていると、レンが部屋に入ってきた。俺が起きているのを見て、挨拶をする。それに返しながら、うん、と背伸びをした。

「アイツはもう行ったのか?」
『はい。出発は早朝だから、と』
「ふぅん?ま、いいや」

あふ、と欠伸をしつつ、さて今日はどうしようか、と思う。
俺はここから出られない。ルシファーの捜索はオリエンスに任せているし、俺のすることは何もない。つまり、一日暇だということだ。
もうこの生活にも飽きてきたしなぁ、と思っていると、レヴィアタンがクス、と小さく笑って。

『若君、今日は気分転換がてらに散歩にでも出かけますか?焔を出さないとお約束していただけるなら、俺の方から兄上に言付かっておきますが』
「え?マジで?いいの?ほんとに?」

嬉しさのあまりにレンに飛びつけば、少し照れたような顔をしたあとに、こくりと頷いた。

『ここ数日、若君は大人しくされていましたし、ご褒美です』
「やった!さすがレン!話が分かる!」

うきうきと走り回って、服を着替える。そんな俺を、じっと見つめるレンの視線を感じて、顔を上げた。

「?どうした、レン?」
『…………いえ。それより、散歩には俺も同行しますから』
「当然だろ?レンだって俺に付き合ってたわけだし。デートだデート」
『デッ、そ、そんな恐れ多いことを!俺は、さ、散歩に付き添うだけです!』
「なぁに固いこと言ってんだ。別にいいだろ?デートでもさ」
『ダメです!若君と、で、デートしたなんて知られたら、俺、他の奴らに殺されます!』
「いいっていいって!俺が許したんだから。ほら、レンも用意しろ。これは命令、OK?」
『………ッ、は、はい。若君』

ぐっと言葉に詰まりながらも、しぶしぶと準備を始めたレンに、俺はそっと微笑んだ。





「あっちぃなぁー!」

外へと出た俺とレンは、とりあえず学園内を歩き回ることにした。
朝だというのに、太陽の光がジリジリと照りつける。容赦ないその光に、俺は唸った。

「確かに、もう九月に入ろうとしているのに、まだまだ暑いですね」
「あぁ、ほんっと、あちぃ!もうちょっと加減しろよ太陽!」

うがーと頭上にある太陽に向かって吼えると、隣にいたレンがクスクスと笑っていた。
今のレンは、人間の姿をしていた。悪魔の姿のままこの太陽の下を歩けば、すぐにバテてしまうからだ。太陽の光は、悪魔には毒にもなる。それを防ぐためだ。
しかし、と俺はレンを見やった。暑いですね、というわりに、汗一つ掻いていない。涼しい顔をして俺の隣を歩いていた。
じと、と俺の目線に気づいたのか、レンが若君?と不思議そうな顔をしてこちらを覗きこんできた。

「俺の顔に、何か?」
「や、別に………。あ!あっち、あっち行ってみようぜ!」

ふい、と視線を逸らせながら、俺は駆け出した。あっち、と指を差す俺を、レンはのんびりとした様子で着いて来る。

「そんなに急がれたら、転びますよ」
「俺はガキかっての!」

大丈夫大丈夫、と笑ったその時、急に、足元を何かが通りすぎて。

「う、わ!」
「若君!」

バランスを崩した俺を、とっさに支えたレン。少し離れた距離にいたはずなのに、と思いつつ、肩を抱くレンを見上げた。

「お怪我は!?」
「あぁ、大丈夫だ。それより……」

さっきのは、と周囲を見渡すと、白い毛並みの狐が一匹、俺の足元で延びていた。やば、とその体を抱えると、ふさふさの毛並みが心地よかった。

「これは……白狐、ですね」
「あぁ、誰かの使い魔か。でも、どうしていきなり飛び出して来たんだ?」

目を回したままの狐を見やっていると、近くの茂みがガサリと揺れた。誰だ、と身構えていると、そこか現れたのは一人の女で。
気の強そうな瞳をした彼女は、俺を見て目を見開いてた。

「あ、アンタ、こんなとこで何を………って、ウケ!」

俺の抱えた狐を見て、彼女は目の色を変えた。どうやら、彼女の使い魔らしい。

「この白狐、アンタのか?」
「アンタのかって……アンタこそ、何言ってんのよ」
「?」

怪訝そうな顔をする彼女に、首を傾げる。なんだ?と思っていると、レンが何かを察したのか、彼女と俺を離すと、何やら説明していた。その内彼女の顔色が変わり、ちらりとこちらを見やって、小さく頷いていた。
どうやらそこで話は終わったらしく、レンだけがこちらに近づいてきた。

「一体、何だったんだ?」
「いえ、大したことではなかったようです。どうも、彼女の知り合いに若君と似た人間の男がいるらしくて、勘違いしたようです」
「ふぅん?そっか」

なら、いいや。と俺がそう言えば、レンは少し複雑そうな顔をしていた。
それから俺たちは、だらだらと歩き回った。この学園は無駄に広いらしく、半日歩いただけで結構な体力を使ってしまった。まぁ、俺もレンも悪魔なので、これくらいで疲れはしないけれど。

「若君、そろそろ寮へ戻りましょう。恐らく、オリエンスも戻っている頃ですし」
「んー………」

適当なベンチで休んでいた俺は、レンの言葉にぼんやりと言葉を濁した。真っ青な空を見上げて、ただ流れていく雲を眺める。綺麗だな、とその光景を見てぽつりと思う。
そんな俺の横顔を見ていたレンは、ふ、と小さく笑って、それ以上何も言わなかった。

さすが、空気を読める男だ。俺は満足しつつ、そのまま空を見上げていた。




若君は、俺の隣でぼんやりと空を見上げている。その瞳と同じ、青い空を。
あまりにも静かな横顔に、俺は何となく口を閉ざす。

彼が何を考え、どう動こうとしているのかは知らない。知ろうとも思わない。何故なら俺は、どんなことがあろうとも彼に仕える部下として、彼の命令を成すだけだからだ。

部下、か。

俺は自分の思考に、自分で苦笑を漏らす。
少し前、彼の弟から問われたことを思い出したからだ。

『レヴィアタン、君は……―――兄さんのことが好きだろう?』

真っ直ぐにこちらを見る緑色の瞳。それは嘘偽りを許さない光を宿していて、元々嘘を付くつもりはなかった俺は、否とは唱えなかった。

若君を、いや、奥村燐という存在を、俺は心の底から大事に想う。この激しい熱は、恋情と呼ぶにはあまりにも強く、鮮やかだ。
大切だった兄弟たちを置いてでも、傍に居たい。何もかも捨てても、彼と在りたい。
………この感情を、人間は恋という。愛といい、素晴らしいと説く。
だけど悪魔にとっては、それは執着ともいう。
悪魔ゆえに抱える独占欲だといい、服従欲だという。

まさに、正論だ。

彼に仕える悪魔たちは皆、彼に強い執着を抱いている。それが忠誠という形で根付いている。
まったくもって、悪魔とは厄介だ。人間が忌み嫌うのも、少しは分かる気がする。
だけど、それが悪魔というイキモノだ。俺もその、イキモノの一つに過ぎない。

だったら、彼はどうだろう?

悪魔でありながら、人として生きようともがき、今も人と共に生きようとしている、彼は。
考えて……―――止めた。それはもう、彼がこの物質界にいる時点で、答えが出ているようなものだ。

彼が守りたいと想うもの。大切にしたいと想うもの。それらがあるこの世界にこそ、彼は執着している。
彼は、奥村燐という悪魔の王は、きっと。
この世界に、恋をしているのだろう。



「……なぁ、レン」

そんなことをぼんやりと考えていると、彼は唐突に話しかけてきて、ハッと我に返る。どうやら俺も、彼と同じように空を見上げて呆然としていたらしい。少し、首が痛んだ。
その痛みを無視して、彼へと視線を向ける。

「はい、なんでしょう、若君」
「………、」

ゆらり、と彼の瞳が揺れる。そして、真っ直ぐに俺を見つめて。

「これから何があったとしても、お前はそのままでいろよ」
「……―――え?」

若君、と問いかけようとして、ハッと目を見開く。不穏な空気が、俺たちの周りを囲っているのが分かる。逃げ場は、ない。
嵌められた。ぎり、と奥歯を噛み締めていると、カチ、と背後で音がした。耳に覚えのある音。そう、彼の弟の持つ得物が響かせる、独特のソレ。
じり、と俺が背後の気配に気を巡らせていると、若君はハッと乾いた笑みを零した。

「やぁっとお出ましか、祓魔師ども。俺の周りをこそこそしやがって、鬱陶しいったらねぇぜ」
「そりゃあ失敬。お前さんが別嬪なもんで、ついつい気遅れしちまってよ」

背後の男が、くく、と小さく喉を鳴らした。同時に漂ってくる匂いに、顔をしかめる。
煙草のようだが、違う。これは、悪魔の嫌う薬草だ。それを煙草として吸っているとは、よほど悪趣味な相手らしい。

「箱入り娘だからって中々逢わせてもらえなくてよ。ご丁寧に結界までこさえて、結構なことだ。だが、箱の中に居たのはとんだじゃじゃ馬のようだな。自分から誘うような真似までしやがって」

男はふぅ、とわざとらしく煙を吐いた。立ち込める匂いに、全身がビリビリと痺れる。俺は今人間になっているのでそう効き目はないが、若君の方はたまったものではないはずだ。
この煙だけでも、と動こうとした俺の背に、固い何かが押し当てられる。振り返らなくても、それが何なのかは分かった。

「兄ちゃん。人が口説いてるのに横槍入れるのは、無粋ってもんだ」
「ッ、貴様……!」
「止めろ。お前の目的は俺だろ。……ったく。それで?お前は俺をどうしたいんだ」
「………へぇ、お前さんの方は頭はからきしだったと聞いていたが、誤報のようだな。まぁ、話が省けて助かるけどよ。………―――、虚無界の王、青焔魔。お前を正十字騎士団の名に置いて、捕縛する。理由は………まぁ、色々あるが、面倒なんで省く」
「な、何をいきなり……!」
「いきなりぃ?何を今更。コイツが最近やったことに比べりゃあ、遅いほうだ。ま、本人が一番分かってるようだが」
「!」

ぐ、と唇を噛む。
やはり、というべきか。ユダが暴走した際、兄上の結界によって騎士団への隠蔽を行ったが、騎士団にも優れた感知技術を持つ者がいるのだろう。全てを隠しきれるとは思っていなかったが、まさかこのタイミングで来るとは。
どうする。ここで彼を連れて逃げることは簡単だが、逃げれば更に彼の立場は苦しいものになる。かといって、このまま彼を連れていかさせるわけにはいかない。
どうする。
どうする!?

思案していると、くい、と袖を引かれた。ハッと見下ろせば、彼が小さく笑っていた。

「俺は大丈夫だ。コイツは、捕縛と言った。つまり、俺をどうこうするつもりはないってことだ」
「そういうこった。大人しく付いてくれば、まぁ、悪いようにはしねぇよ」

男はそう言うと、俺に押し付けていた銃を離した。同時に彼が立ち上がって、くるりと後ろを振り返った。そして、ニッと口元を吊り上げると。

「いいか、さっきの言葉、忘れるんじゃねーぞ。夜羽」

忘れんな、ともう一度言った彼は、ぐっと前を見据えて。

「………―――連れて行け」


凛とした態度で、そう言い放った。






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