そして、夏    捌




『一体、どういうつもりだ『蛟の王』よ。この度の失態、どう責任をとるつもりだ!』

オリエンスの怒鳴り声が響く。俺は黙ったまま、じっとその声を聞いていた。何も言わない俺に焦れたのか、オリエンスはぐっと俺の胸倉を掴み上げた。包帯の巻かれた両目が、じろりとこちらを射抜く。
凄まじい殺気だ。さすが、八候王の一人、と言うべきか。周囲の空気がピリピリと騒いだ。

『主をむざむざと人間に引き渡したあげく、手ぶらで帰ってくるとは何ごとか。主は騎士団の強敵ぞ!これでもし主になにかあれば、お主も唯では済まぬぞ』
「………―――」
『主の願いだから今まで黙っていたが……、やはり主を物質界に戻すのではなかったと後悔している。虚無界で我らがお守りしていれば、このようなことは在り得なかった。今すぐ虚無界にこのことを知らせ、主をお助けせねば……―――』
「軍を動かすことは、上位王子の名において許可できない」
『何故!』
「若君が、望んでいないからだ」
『ッ、『蛟の王』よ。ことは重大ぞ。悠長に構えている暇などない。我らは騎士団に刃を向けられた。ならば刃で返すのが道理』
「………」
『『蛟の王』!』
「今は動くな。若君には、若君のお考えがある。下手に動けば、若君の足を引っ張るだけだ」
『……その、考えとは?』
「………―――」

俺はそっと目を閉じた。最後に彼を見た、あの時のことを思い出す。
元々違和感は感じていたけれど、それが確信に変わった。きっと彼は、俺が違和感を感じていることにも、気づいていたはずだ。そしてそれを、明かしてみせた。

だったら『蛟の王』おれは、その命を成すだけ。

「オリエンス。お前はしばらく動くな。ルシファーの捜索も中止だ。………今度は、俺が動く」
『『蛟の王』………。お主、何を考えて……』

眉根を寄せるオリエンスに、俺はゆっくりと瞼を開いた。

「少し………考えがあるんだ」





夜。俺は目的地へと向かっていた。暗い夜の闇は、人間の姿になっても俺の味方をしてくれる。それに、今日は月の光が乏しい。姿を隠して行動するには、絶好の機会だ。
確か、この辺りだったはず、と足を止めたその時、俺は反射的に体を真横へと滑らせた。同時に飛来する、銀色の何か。それは俺がいた場所に、突き刺さった。
銀の小型ナイフ。柄には、正十字騎士団の象徴シンボル。そして……―――。

「ざぁんねん。外れちゃった」
「………祓魔師か」

暗い闇の中、淡い銀色の髪の女が、こちらを見て笑った。まるで獲物を見つけた狩人のように、ギラギラと瞳を輝かせて。
彼女は俺を見やって、こてん、と首を傾げた。

「あれぇ?今日は着流しのお兄さんじゃないね。きゃはは!こっちのお兄さんも、けっこうイケてるじゃん」
「何用だ。俺は、先を急いでるんだが」

甲高く笑う彼女に、俺は淡々と答えた。だが、彼女はそれさえも無視して、ケラケラと笑う。

「いいじゃん、遊んでよお兄さん。お兄さんなら、退屈しなさそうだもん」
「………何を言っても無駄だということか」

はぁ、とため息を吐く。弱ったなと思いつつも、相手が祓魔師、それも上級の人間なら半ば全力で相手をしなければならないだろう。ことは穏便に運びたかったのだが、と少し落胆しつつ、右足を引く。
彼女も、俺が臨戦体勢に入ったのに気づいたのか、するりとナイフを取り出して、ぺろりと刃先を舐めた。舌が切れたのか、つ、と赤い血がナイフを伝う。
しかし彼女は気にした様子もなく、己の血で濡れたナイフを構えて。

「きゃはは、やっぱりイイ男は切り刻むのが一番だよねぇ……!」
「っ、」

笑みと同時に、投げた。
俺はとっさに体を動かすが、彼女の投げたナイフは動かした軌道上にあった。体を捻らせて、なんとか避ける。
………、この女……、俺の動きを読んだのか………!?
ざざ、と砂埃が舞う。同時。

「よいしょぉ!」

彼女が何かを引く動作をした。とっさに顔を背ける。直後、ひゅん!と頬に痛みが走った。見なくとも、そこから血が溢れ出すのが分かる。
そして、彼女の手には先ほど投げたナイフがあった。そこで俺は、確信する。

「お前………、糸使い、か?」
「あはは、ざーんねん!外れだよぉ」

ひゅん、とナイフを手で弄ぶ。ジャグリングのようにナイフを投げながら、しかし、刃の部分を握っているのか、両手が赤く染まっていく。
異様な光景が、目の前に広がっている。彼女はまるで、ナイフの刃で傷つけられることに頓着していない。ただただ、楽しげにナイフで遊んでいる。

「どうしたの、お兄さん?怖い顔しちゃってさぁ。あ、もしかして、アタシのこと、ワケ分かんない女とか思ってる?きゃはは!」
「………確かに、貴様はどうやら人から外れているらしいな。その血……妙な匂いがする」
「……―――へぇ、お兄さん、コレに気づいたんだ」

それまで軽快に笑っていた彼女は、俺の言葉にすっと表情を変えた。静かな、何の感情も浮かばない瞳が、こちらを見つめる。

「すごいね、お兄さん。でも、もう遅いよ。…………―――アタシは、血を流しすぎた」

くるり、と彼女は手の中のナイフを遊びながら、小さく笑った。

「………―――召喚、ケルベロス」

彼女の囁きと同時、すっと右手を掲げた。そして……―――掲げた彼女の腕が、ぼこりと変形した。細い少女の腕ではなく、獣のそれへと。ぐちゃり、と濡れたような音を奏でる腕を見て、まるで喰われているようだ、と思った。

彼女は、ぐるる、と喉を鳴らす。まるで、獣のように。そして、高らかに咆哮した。
ビリビリと耳を突くそれは、確かに、番人ケルベロスのそれだ。
俺は彼女を見て、くっと唇を吊り上げた。確かに、これは厄介だ、と。

「……なるほど、貴様、召喚士か」
「『正解』」

彼女、いや、ケルベロスは笑う。
高く、遠く。声を上げて。

「『正十字騎士団、四大騎士の一人。悪魔憑き、アンネルーゼ。以後よろしく。お兄さん?』」

そして彼女、アンネルーゼは跳躍した。





夜。どこからか、犬の遠吠えが聞こえた。学園内に、野良犬でも入り込んだのだろうか。
机に向かって報告書を作成していた俺は、そっと手を止めた。少し、集中力が切れてしまった。まぁ、一時休憩することにしよう。そう考えて、キーボードを打つ手を止めた。
まだ、犬の遠吠えが聞こえる。随分長いな、と思いながら、窓の外を見ようとして、携帯が鳴った。時計を見やれば、深夜の一時過ぎ。こんな時間に誰だ、と小さく眉根を寄せて、画面に表示された番号を見て、さらに眉根を寄せる。しかし、何となく嫌な予感がして、携帯に出る。

「おう、俺や。……どないした、こんな夜更けに」



夜。いつものようにお店の片づけをして、明日の準備も済ませて、さて寝ようかな、と思っていたその時。どこか遠くで犬さんの声が聞こえた。野良犬さんだろうか。どこまでも遠くに響く声は、力強くたくましい。
あんな小さな体のどこから、こんなにも強い声が出るんだろう?少し疑問に思いつつも、私は自室へと向かった。
その時、携帯の電話がなった。めったに鳴らないので、少し戸惑いつつも出てみれば、珍しい人からの電話だった。

「は、はい!ど、どうしたの?」

そして、聞こえてきた声に、ハッと目を見開いた。





夜。窓から差し込む月の光を見上げていると、どこか遠くの方で犬の遠吠えを聴いた気がした。
その声に、そっと目を細める。窓から視線を外して、じっと鎖で繋がれた己の手を見る。わずかに動かすと、チャリ、という固い音がした。両手を拘束するこの鎖には、小さく何かの呪文のようなものが書かれている。対悪魔用のものであるのが、すぐに分かった。
まるで、動物園の動物になったような、そんな気分になる。いや、動物園の方がまだ自由はある。
ということは、動物よりも自由が利かない状態にさせられた自分は、動物以下というわけか。

「………、動いた、か」

苦笑を漏らす。自分の思考と、察しのいい部下に対して。
本当、察しが良すぎるのも考えものだ。

「そのままでいろって、言ったんだけどなぁ」

困ったなぁ、とぼんやりと呟きながら、ちらり、と鉄格子の向こうを見やる。ゆらり、と煙草の煙が揺れるその場所へ目を向けて。

「それで?俺を捕まえて、お前らは何がしたいんだ?……いや、お前は、か。陰陽師、安部野洲郁」
「フルネームは嫌いなんでね。野洲郁でいい。ったく、お前ら兄弟は揃って藤本の野郎に似て困るぜ」

くく、と笑いながら、野洲郁は鉄格子の扉を開いて中へと入ってきた。途端に鼻につく煙草の匂いに、へぇ、と思う。

「さっき吸ってたのとは違うな。普通の煙草の匂いがする」
「そりゃあ、悪魔のお前にあの煙は毒だからな。俺は、お前さんを捕まえたが殺すとは言ってねぇ。こうして大人しくしててくれりゃあ、俺だって真摯に対応するさ」
「はは。お前はいいやつだな。ジジイのことも知っているみたいだし」
「おうよ。俺はいい男だぜ?藤本の野郎とは長い付き合いだしな。その息子のお前らに手荒なマネはしねーよ?」

陽気に笑って近づいてくる野洲郁に、にぃ、と笑い返す。長身の男を見上げて、チャリ、と繋がれた己の両手を振ってみせる。

「そのようだな。俺はともかく、うちの弟をずいぶんと可愛がってくれてるみてぇだし。俺が気づかねぇとでも思ってンのか知らねぇけど、お前の煙草の匂いがアイツからしてたからな。すぐに分かったよ」
「………なるほど?牽制も無駄じゃなかったってわけか」

野洲郁はそう言うと、繋がれた手を掴んで俺を引き倒した。その上に、男が伸し掛かってくる。ダン!と両手を片手で抑え込まれて、サングラス越しの瞳がこちらを見下ろしてきた。俺はその瞳を、じっと見つめ返した。

「お前、どこまで知っている?」
「………―――さぁな」

静かに、威圧的に、野洲郁は問いかけた。そしてそれに、淡々と返した。目を、逸らすことはしない。逸らしてはいけないと、本能で分かっていた。負けられない。負けてたまるか。
俺はその意を込めて、ニィ、と笑った。

「俺はアイツが話すまで、何も聞かねぇ。もちろん、アンタがここでアイツのことを話したとしても、俺はすぐに忘れる。何せ、頭の出来は悪いほうなんでね。難しいことは、覚えてらんねぇんだ」
「なるほど?どうやら、俺が思っている以上に、お前は馬鹿らしいな。ったく、ホントにお前らは藤本の野郎そっくりだよ」
「そりゃどうも。………つーか、いい加減俺の上からどけよ。重い」
「別にいいだろ?減るもんでもねーし。魔界の王を組み敷ける機会なんざ、そうねぇからな。いやー絶景だな」
「…………好きにしろ」

軽口を叩く男に、俺はやってられるかとため息を吐いて顔を背けた。そんな俺をどう見たのか、野洲郁は小さく笑って。

「なんだ、お前。オトコを知ってんのか?」
「……………―――どう思う?」

ちら、と見上げれば、野洲郁は楽しげにサングラスの奥の瞳を細めた。それまでとはうって変わった、男の色を宿した瞳がこちらを見下ろす。

「道理で、雪ちゃんが俺になびかねーわけだ。お前さんが相手なら、怖くておちおち浮気もできやしねーだろうよ」
「は、雪男なら俺にバレるようなヘマするかよ。アイツは、俺に絶対バレないようにするさ」

それが、アイツの優しさだ。
優しい嘘は、最後まで突き通す。そんな優しい奴なんだ。アイツは。
だからこそ、俺は馬鹿でいられるんだ。

「それに、俺と雪男はそんなんじゃねぇよ」

小さく笑うと、野洲郁は意外そうに目を瞬かせた。マジで言ってんの、と言いたげな顔をしている。

「そりゃねーだろ。雪ちゃんが、お前さんのことどれだけ大事にしてんのか、知らねぇわけじゃねぇだろ?だったら、応えてやるのが普通じゃねぇか」
「………―――」

見下ろしてくる男は、諭すような、責めるような目をしていた。何やかんや言いながら、他人のことに首を突っ込んでくる性分らしい。
やっぱ、いい奴だな、と内心で思いながら、そっと首を横に振った。

「…………―――、俺は、雪男がすきだよ。すきだから、もう、ダメなんだ」
「なにが、ダメなんだよ。好きなら好きだって、言えばいいじゃねーか」
「………一ヶ月前なら、言ってたさ。だけど、もう、手遅れなんだ」
「手遅れって………。お前さん、一体何を考えている?」

何が目的だ、と問う祓魔師に、俺は、虚無界の王は。


「俺はただ……―――大切なひとを守りたいだけだ」


その決意を、告げていた。









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