Love And ×××




カリカリ、とペンを走らせる音が響く。同時に、グスグス、という泣き声も重なるように聞こえてきて、僕は動かしていた手を止めた。

「……ちょっと、兄さん?」
「な、んだよ、ッ、今すっげーいいとこッ……!」
「……」

僕は振り返って、はぁ、と頭を抱える。兄さんが僕のSQを片手に、ベッドの上でグスグスと泣いている。ちくしょう、こんなひどい話があるかよ、とSQに対して文句を言って、僕の方には見向きもしない。
それ、僕のSQなんだけどな、と思いつつ、僕は兄さんに近づいて、兄さんの手からSQを奪還した。

「あ!ちょ、かえせ!」
「これは僕のSQだよ、兄さん。それより、兄さんは祓魔師でしょ?少しくらい僕に勉強を教えてくれたっていいじゃない。せっかくの休みなんだし」
「あー……」

僕は少し拗ねたような声でそう言うと、兄さんは少し困ったように視線を彷徨わせた。
僕が兄さんとこの旧男子寮で住むようになってから気づいたことなんだけど、兄さんはとにかく忙しい生活を送っている。昼間は学生、夜は僕ら塾生の講師に、祓魔師としての依頼。その三足草鞋をはいている兄さんは、必ずこの寮に帰っては来るけれど、すごく遅い時間に帰ってくる。僕は元々そこまで早く寝る性質じゃないから、起きて待っていたりするんだけど、いつも深夜の一時や二時になるのは当たり前で、もしかしたら、前に喧嘩して帰ってこないと思っていたのは、全てこの祓魔師の仕事をしていたんじゃないか、と思う。
だから、こんな風に休日に、二人でのんびりと過ごせるのは、実はすごく久しぶりで。
僕としては勉強なんて建前で、少しくらいは兄さんに構って欲しい、という欲が隠れていたりするんだけど。
そんな思いで兄さんに抗議すると、兄さんはがしがしと頭をかいて、かなり言い難そうに。

「あー、その、ごめんな?実は今から、依頼なんだよ」
「え!?今日も?」
「そ。ついでに買出しもあるし。もう出るよ」

そう言って、兄さんは壁に下げていた祓魔師のコートに手を伸ばした。僕はぐっと手のひらを握り締めて、そうなんだ、とかろうじて声に出した。
残念だけど仕方ない。だって、兄さんは優秀な祓魔師だ。まだまだ未熟な僕にでさえ、兄さんの力量は分かるから。それくらい、兄さんは凄いひとだから。
僕は少し俯いていると、兄さんは少し考える素振りをして。

「……ほんとなら、訓練生ペイジの実践訓練は許可されてないんだけどな。俺は机に向かって勉強を教えるよりも、実践でビシビシ鍛える方が性にあってるからな。今回は特別に、連れてってやるよ」
「!……いいの?」
「おう。せっかくだし、な」

そう言って無邪気に笑った兄さんに、本当にこの人には適わないと思った。



兄さんに連れられて行ったその場所は、祓魔師たちが利用するという用品店だった。趣きのある和風の造りをしたその家には、大きく『祓魔屋』の看板が建っていた。

「あの店には祓魔師しか入れないから、雪男はここで待ってろよ」
「うん、分かった」

僕が頷くと、兄さんは一歩二歩、と足を進めた後、不意に立ち止まって僕を振り返った。

「?何?」
「その、あんまりウロチョロすんなよ?迷子になるから」
「ならないよ!早く行きなって」

心配そうな兄さんに文句を言って、僕はそっぽを向く。兄さんは、すぐ戻ってくるから!と言って店の中に入っていった。
全く、兄さんの中で僕は頼りない「弟」でしかないのだろうか。
そう考えて、僕は少し寂しくなる。だけど、それは的を射ている事実で。さっきだって、そうだ。僕は兄さんに甘えてしまっている。
……―――このままじゃ、いけない。僕は神父さんに、兄さんを守ると誓ったんだ。
僕は祓魔屋の扉を見つめてそう考えていると、ふと、祓魔屋の隣に、少し大きな門があることに気づく。僕は少し興味を引かれて、そちらに向かう。
ちらり、と門の中を覗いて、絶句。そこには数々の花や植物が並び、とても綺麗な庭を作り出していた。
綺麗だな、とぼんやりと見つめていると、庭の中心に座り込んでいる人に気づく。

「あ……」

さらさらの金色がかった髪、少し泥だらけになってしまっているけれど、和服が似合う大人しそうな女の子。
同じ年くらいの子だろうか、と僕がその子を見つめていると、視線に気づいたのか、彼女はハッと顔を上げて僕を見た。

「あ……」
「えっと、その、こんにちは」

僕は少し気まずい思いをしつつ、そう挨拶をした。すると彼女は戸惑った顔をしつつも、こんにちは、と消えるような声で挨拶を返してくれた。僕はホッと安心しつつ、ぐるりと庭を見渡して。

「あの、綺麗なお庭だったもので、つい見蕩れてしまいました。……すみません、勝手に」
「え?あ……、ほ、ほんと?ホントに、綺麗?」

彼女は綺麗と言われて嬉しかったのか、少し顔を輝かせてそう聞いてきた。僕がそれに頷くと、すごく嬉しそうに笑って。

「あ、ありがとう!その、どうぞ入って下さい」
「え?いいんですか?」
「はい。この庭を綺麗だって言って貰ったんだし……」

どうぞ、と促されて、僕は門に手を掛けて、そっと足を踏み入れた。中の庭は本当に綺麗で、隅々まで手入れがされていた。よっぽど、この庭を大切にしているんだな、と思いながら、女の子に近づく。彼女は少し照れくさそうに笑いながらこちらを見上げてきて。

「初めまして、私、杜山しえみって言います。貴方のお名前は?」
「僕は奥村雪男と言います。初めまして」
「え、奥村……?」

僕が挨拶をすると、彼女は少し戸惑った顔をした。どうしたんだろう?と首を傾げると、アレ?雪男?という兄さんの声が聞こえて。
兄さんと少し体格の良い女性がこちらの向かって歩いてくるのが見えた。

「燐!」

兄さんの姿を見た杜山さんが、兄さんをそう呼んだ。兄さんも、久しぶりだな、しえみ!と笑顔で返していて、僕はぎょっと驚いた。
『燐』?『しえみ』?何で、彼女と兄さんは名前で呼び合っているんだ!?
僕が内心でグルグルしていると、兄さんは僕と杜山さんを交互に見て首を傾げた。

「お前ら、知り合いだったのか?」
「ううん。さっき知り合ったばかりなの。燐、その……この人は……」
「あぁ!双子の弟の雪男だよ!いつも話してた、俺の自慢の弟!」
「そ、そうなんだ。全然似てなかったから、気づかなかったよ」

どういう意味だよ、と唇を尖らせる兄さんに、あはは、と笑う杜山さん。やけに仲が良さそうな二人に、僕はワケが分からず、ムッとする。

「……兄さんこそ、彼女と知り合い?」
「ん?まぁな。しえみはこの用品店の娘で、よく来てたし。それに、しえみは俺と同期の祓魔師なんだぜ?なぁ?」
「え?」

僕が驚いて杜山さんを見ると、彼女は少し照れくさそうな顔をして、中二級だけどね、と言った。
中二級……、この前兄さんに見せてもらった基本階級表に寄れば、ほぼ真ん中に位置する。でも僕と同じ年でそこまでなれるなんて、相当優秀だ。
こんな可愛らしい子が祓魔師、か。僕は何となく関心するような、複雑な心境になっていると、兄さんは驚いたろ?と笑って。

「あぁでも、俺の同期は他にもいるぜ?俺と同じ年で、しえみと同じ中二級のヤツ。多分、講師にもなってるから、その内会うことになんじゃねーかな」
「うんうん。勝呂君のことだよね?確か、もうすぐ中一級の試験だって言ってたし、詠唱騎士アリアだから、聖書・教典暗唱術の講師になってるんじゃないかな」
「アイツ、もう中一級になんの?早ぇえな!さすが坊!」
「そういう燐だって上一級だもん。凄いよ。勝呂君、燐に追いつこうと必死なんだよ」
「げ、だったら、アイツに追いつかれねーようにしねーと」

そう言いながらも、兄さんはどこか楽しげだ。その顔に、僕はつい苛々してしまう。
分かっていたことだけど、祓魔師の兄さんの世界は広い。きっと僕の知らない友人関係だとか、色々とあるのは、分かっている。
でも、それでも。
誰よりも兄さんの傍に居たのは、僕だと思っていたのに……―――。

「雪男?」

ぎり、と奥歯を噛み締めていると、兄さんが怪訝そうな顔で僕を見上げていた。やや上目遣いにこちらを見上げる兄さんの、青がかった瞳に、僕は言葉に詰まる。
そんな僕に気づいていないのか、兄さんはどうした?と声を掛けてきて。
どうしたもこうしたもないよ、と言いたくなるのを、ぐっと我慢した。

「いや、何でもないよ。それより、買出しは済んだの?」
「あ?あぁ、まぁな。買出しは済んだけど、依頼は今からだな」
「?」

どういうこと?と聞こうすると、兄さんは笑みを潜めて杜山さんを見た。

「状況は?」

兄さんがそう聞くと、杜山さんも表情を一変させて、はい、と頷く。

「正直、あまり良いとは言えません。今は潜んでいますが、緑男ニーちゃんに探ってもらってるので、じきに出てくると思います」
「そう、か」

なら、もうしばらくだな、と頷いて、兄さんは僕を見る。やけに真剣な表情に、僕も緊張すると、兄さんは僕を呼んで。

「さて奥村君、ここで問題です。『木霊エント』とは、どんな悪魔でしょうか」
「……えっと、確か木に宿る悪魔で、『地の王』アマイモンの眷属。山などに住み、通称山彦とも呼ばれている悪魔、です」
「はい、正解。よしよし、ちゃんと勉強してるな!」

偉いぞ!と満足げに兄さんは笑う。僕は、はぁ、と力なく返事をすると、杜山さんが感心したように、燐、ちゃんと先生してるんだね!と手を叩いた。

「ちゃんとって、どういう意味だよ。ったく!……あー、まぁ、つまり、今回の依頼は、実はこの祓魔屋からなんだよ。いつもこの店は悪魔避けの結界をしてるんだけど、稀に悪魔が入り込んでイタズラするんだ。ここの庭の植物は、手騎士テイマーであるしえみが手塩にかけて作っている薬草やら何やらが多くてな、悪魔にとっては絶好の餌場ってわけ。んで、いつもならしえみだけで祓うことはできるんだけど、今回入り込んだ悪魔がちょっと厄介だったんで、俺の登場ってワケ」
「……じゃあ、その悪魔っていうのが、さっきの『木霊』っていうこと?」
「そうそう。さすが俺の弟!察しが良くて助かる!」

嬉しそうな兄さんに、や、それくらい誰でも分かると思うよ、と言おうとしたけれど、あんまり嬉しそうな顔をしているので、まぁ、いいか、と口を閉じる。すると、その一連を笑って見ていた杜山さんが、突然、あっ、と声を上げて。

「燐!後ろ!」

杜山さんが指した、兄さんの背後。僕はそこに佇むその姿を見て、絶句した。
そこに、いたのは……―――。

「に、さん……?」

かつて、僕をいじめっ子たちから守ってくれた、幼い頃の兄さんが、そこには居た。
僕が声を失っていると、隣に居た兄さんがチッと舌打ちして。

「ったく、厄介な悪魔ヤロウだぜ……!」

そう苦々しく呟く。
杜山さんも自分の口に手をやって、ぐっと何かに耐えている様子だ。何だ?と僕が違和感を覚えると、兄さんは僕に囁くような声で。

「『木霊』は厄介な悪魔でな、見ている者の望む姿を見せる。だから、今俺たちが見ているのはヤツが見せる幻影ってヤツだ」

苛立たしげにそう言う兄さんに、僕はなるほど、と動揺していた心を落ち着ける。アレは悪魔が見せる幻影。虚像だ、と。
だけど、そんな僕を嘲笑うように、幼い兄さんは、ニッと笑って。

『どうした?雪男?また、アイツらに苛められたのか?』
「……ッ!」
『大丈夫だ。俺が、お前を守ってやるからな?』

それは、かつて本当に兄さんが僕に対して言った言葉と何一つ変わらなくて。
苛められて泣いてばかりの僕に、兄さんが言った何よりも安心できた言葉だった。

「……あ」
『ん?どうした?雪男?』

幼く、それでいて強く笑う『兄さん』。ゆっくりとこちらに向かってくる『兄さん』に、僕は一歩後退して。
ダメだ。これは悪魔の見せる幻影だ……!
僕は強く意識を保とうと頭を振る。だけど、『兄さん』は確かにこちらに向かって手を伸ばしていた。その姿に僕は動揺して、来るな!と叫ぼうとして。

「惑わされんな、雪男!」

バン、と頬を叩かれたような怒声がして、僕は我に返る。同時にぎゅっと手のひらを強く、握られて。

「に、さん……?」
「俺はココに居るだろうが!どこ見てんだテメーは!」

しっかりしろ、と固く握られる手のひら。その温度は、ずっと昔から変わらないもので。
見失いかけていた本当の兄さんを、見つけることができた。
そうだ、兄さんはずっと、僕の傍に居てくれた。早く走れずに置いていかれそうな僕に、仕方ないなと手を伸ばして、引っ張って行ってくれた。
……僕はその手のひらの温度を、ずっと大切に想ってきたじゃないか。

「……ごめん、兄さん」

僕が謝ると、兄さんはニッと笑って、おう!と返してくれた。そして、楽しげな顔をして『兄さん』を見る。その顔はまさに祓魔師の顔で。

「さて、と。そろそろその悪趣味な姿も見飽きたし、お暇してもらわねぇとな?」

兄さんはそう呟いて、背負っていた刀を抜いた。しゃあ、ん、と高い金属音が響いて、淡い青色を纏った刀身が露になる。ソレを見た『兄さん』は顔を恐怖に歪ませて。

『怖い、雪男!』

僕に向かって、泣き出しそうな顔でそう叫んだ。だけど、僕の心はもう動くことはなかった。
握り締めた手のひらが、確かに隣に在るから。

「しえみ、手を貸してくれ」
「う、うん!ニーちゃん!」

お願い!と杜山さんが叫ぶと、『兄さん』の足元の土がもぞり、と動いた。そして、『兄さん』の足に地面から生えた蔦のようなものが絡んで、身動きを封じる。『兄さん』は驚いた顔をしてその蔦を見下ろしながら、必死にその場から動こうとする。だけど、蔦はぎっちりと絡んで、離さない。

「燐!今のうちに!」
「おう、サンキュな!」

兄さんはふ、と腰を落として、刀を構える。そして、僕の手を握るその手にきゅっと力を込めると、ゆっくりと手を離して。

「……失せろ」

同時に疾走して、刀を振りかざす。ザン、と切り裂く音が響いて。

『ギ、いィィィィィ!』

『兄さん』の姿をしていたソイツは、奇声を発しながら倒れ込んだ。同時に、その体は灰になって、霧散する。
まるで、灼熱の焔に焼かれたように。
兄さんはそんな悪魔に一瞥することもなく、刀を鞘に収めて。

「……ニセモノはいくら似せたところで、所詮は似せモンなんだよ」

なぁ、そうだろ。ジジイ。

そう、ぽつりと呟いた。
その背中はどこか切なくて、僕は胸が痛んだ。
『木霊』が兄さんに見せていた幻影は、きっと今は亡き神父さんの姿だったに違いない。兄さんにとって神父さんは、口うるさいクソジジイと口では言いながらも、心のどこかで憧れていたのだろうし、唯一、兄さんを守れる存在だったハズだ。
だけど、その存在はもう、この世界のどこにも居なくて。
……僕が、神父さんの代わりになれたらいいのに。
そんな、叶いもしない願いを、僕は兄さんの背中に秘めていた。



祓魔屋からの帰り道。夕方に赤く染まる道のりを歩いていた。いつもなら口数の多い兄さんも、このときばかりはずっと黙っていた。僕も何て声を掛けていいのか分からなくてずっと黙っていると、僕の先を歩いていた兄さんは突然、あーあ、と声を上げて。

「今日は疲れたなぁ、雪男」

こんな日は早く帰って、鍋とか食いたいよなぁ、と兄さんは振り返って、笑う。
いつもと何も変わらないその笑顔は、赤い夕日に染められて、どこか切ない色を浮かべていた。

こんな風に、いつも泣くのを我慢していたのだろうか。
僕を背中に庇っていた兄さんは、ずっと泣けずに歯を食いしばっていたのだろうか。

僕はその顔を見て、でも、何も言えずに、ただ、そうだね、とだけ返した。
神父さん、貴方ならこんな時、どうしますか?兄さんに、どんな言葉をかければいい?
心の中で問いかけるけれど、神父さんは、自分で考えろ、とだけ笑って、何も答えてはくれなかった。
それが何よりも神父さんらしくて、僕は笑ってしまった。
そうだね、自分で考えなきゃ、意味がないよね。

「兄さん」

だから、僕は。

「今日は、おでんが食べたいな」

何も言わないけれど、ずっと傍に居る。
それが今の僕にできる、精一杯だから。

僕がそう言うと、兄さんはきょとん、とした後、小さく笑った。
ばーか、おでんは鍋じゃねぇよ、と毒付いたけれど、きっと今日の晩御飯はおでんだろう。
たぶん、大根がたくさん入った、ね。




翌日。
祓魔塾に向かうと、すぐに講師の先生がやって来た。開始時間五分前にも関わらず教室に入ってきたその人を見て、僕は驚いた。
漆黒の髪をバックにして、真ん中の部分だけを黄色に染めたその人は、耳に銀色のピアス、指にも指輪を嵌めた、いかにもガラの悪い感じが否めない人だった。
祓魔師の服を着てはいるものの、本当にこの人は教師なんだろうか、とマジマジと見つめていると、視線に気づいたのか、ずい、と僕を見下ろしてきて。

「な、なんでしょうか……?」
「お前が、奥村の弟か……?」
「は、はい。そうですけど」
「……」

僕が頷くと、その人はじっと僕を見下ろした後、へぇ、と呟いた。

「似とらんなぁ。アイツと違って、賢そうに見えるわ」
「へ?」
「あー、すまん。俺が誰か分からんやろ?」

そう言って苦笑した先生はその独特の訛から、どうやら関西の人だってことは分かった。
もしかして、ヤンキーさんなのだろうか、と僕が思っていると、その人は丁寧に手を差し出して。

「奥村とは同期の、勝呂や。聖書・教典詠唱術と、銃火器の担当をさせてもらうことになっとる」
「あ、貴方が!?」

昨日言っていた兄さんの同期で、中二級の祓魔師。とてもそうには見えないけれど、きっと優秀な人なんだ、と僕は呆然と彼を見上げた。
彼は差し出した手のまま、少しだけ笑って。

「これからよろしゅうな、奥村君」
「あ、はい!よろしくお願いします」

僕は慌てて、差し出された手を握る。僕と同じ年のはずなのに、その人の手はどこか大きく感じた。そういえば、この人はもうすぐ中一級の資格を取る予定だって言ってたな、と思い返していると、彼は意味有りげな視線を僕に向けて。

「……まぁ、あの奥村の弟なら、これから色々と苦労するやろうけど、頑張ってな」
「え?あ、はぁ……」

色々と、の部分を強調されて、何となく嫌な予感がしながらも、僕は頷いた。そのまま授業開始の鐘が鳴ってしまって、それ以上の話はできなかったけれど、その時の勝呂先生の言葉を痛いくらいに理解する時が来るのを、僕はやっぱり予想だにしていなかった。




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