やさしいあくま 3

翌日。またあの桜の下に行くと、今度は彼女が先に来ていた。彼女は俺に気づいて、小さく手を振る。
俺はそれに手を振り返しながら、彼女の邪魔にならないように、離れて腰を下ろした。

「今日もこの木を描いてるのか?」
「うん、そうだよ。こんな素敵な桜の木、私初めて見たから……」
「あー、確かにこの桜は綺麗だもんな」

俺が桜の木を見上げると、桜の花びらが風に舞い上がった。もう、随分と桜の花びらが散ってしまったように思う。多分、あと数日後には完全に散ってしまうだろう。
俺がしんみりとしていると、彼女はどこか懐かしむような声で話し出した。

「私、病弱でね。最近まで外に出られなかったんだよ」
「え?そうなのか?」
「うん、この学園に入学したのはいいけど、病気でずっとお休みしてて。最近になってようやく学校に来られるようになったんだよ」
「そうだったのか……。全然、そんな風には見えねーけどなぁ」
「今は病気も治って元気になったから……」
「ふぅん?……俺の弟もさ、雪男っていうんだけど、ソイツも昔は病気ばっかしててさ。今は元気になって、バリバリやってるよ」
「へぇ……、そうなんだね」

二人で他愛もない会話をしながら、彼女は手に持ったペンを走らせる。俺はその姿を見つめながら、完成した絵を見るのを密かな楽しみにしていた。



彼女が桜を描く間、俺はその姿を見つめたり、ぽつりぽつりとお互いの日々のことを話したり、そんな日々が続いた。彼女と校舎で会うことはなかったけれど、あの桜の木の下に行けば、必ず会えた。だから、無理に他の場所で会おうとは思わなかったし、そもそも名前さえも分からない。だけど、不思議とそんなことは気にならなくて。塾の皆とは少し違う、そんな関係が何故か居心地が良かった。
そんなある日、ふと、彼女の自分の料理の腕を自慢したことがあったことを思い出した。その時、食べてみたいな、と笑った彼女に、今度作ってきてやるよ、と約束したことも。
俺は早速、材料を買い込んで厨房に入った。相手は女の子だし、お菓子的なモノがいいだろうか、と悶々としながら、結局クッキーを作ることにした。

「よし、こんな感じ、かな?」

俺が満足げにクッキーをオーブンに入れて一息ついていると、雪男が、何をやってるの?と声をかけてきた。振り返ると、妙に不機嫌そうな雪男の顔。

「?……雪男?」
「兄さん、こんな時間に何やってるの?」
「え?や、その……」

言われて、チラッと時計を伺うと、もう深夜の1時を回っていた。げ、もうこんな時間かよ、と内心で焦っていると、雪男がおや?という顔をした。オーブンから漂う甘い匂いに気づいたらしい。

「兄さん、何か作ってるの?」
「お、おぉ、そうなんだよ。ちょっと、クッキーを焼いてるんだ」
「ふぅん?兄さんがクッキーを焼くなんて珍しいね。……何かあったの?」
「べ、別に?何もねぇけど?ちょっと焼いてみたくなっただけだし」

す、鋭い。
俺がどぎまぎとしていると、雪男はじっと俺の顔を見た後、にっこりと笑った。う、この笑みは嫌な思い出しかねぇ……。

「じゃあ、出来あがったら、僕にも少しくれる?」
「へ?」

いいでしょ、兄さん。と雪男は笑う。その笑みにどこかでこんなやりとりを前にしたような、と思いつつも頷いた。

「良いに決まってるだろ?少し多めに作ったから、皆にも分けようと思ってたし」
「……へぇ?」

アレ?また少し不機嫌になったような?
何だか最近、雪男は不機嫌になることが多いような気がする。何でだろう?
俺が首を傾げていると、雪男は小さくため息をついて。

「……ほんと、このくらい勉強も真剣にやってくれると助かるんだけどね……」
「う、うるせぇよ!」

困った、という表情を隠しもせずに、雪男は言う。俺は気まずさを覚えながらも、早く寝ろよ!と雪男を急かした。
雪男はじっと俺を見つめていたけれど、すぐに、分かったよ、と笑いながら立ち去った。

「天然すぎるのも、考えものだよね」

ぽつり、と雪男がそう零したけれど、俺はクッキーを見るのに夢中で気が付かなかった。



いつもの時間、俺は小さな紙袋を下げてあの桜の木の下に行った。すると彼女が真剣な様子で桜と向き合っていて、俺は立ち止まる。
……綺麗だな、と素直に思う。
桜は随分と散ってしまって、緑色の葉がピンク色の桜の花に混じっていたけれど。それでもその桜は勿論、彼女も綺麗だな、と思う。
桜という花が、よく似合う。
俺はそんなことを考えていると、彼女が俺に気づいた。小さく手を振る彼女に、俺は笑みを見せる。

「こんにちは。今日は少し遅かったね」
「あぁ、クラスで抜き打ちのテストがあってさ……っと、忘れるとこだった!」

はい、と手に持った紙袋を渡すと、彼女はきょとんとした顔をして俺を見上げてた。

「何?コレ?」
「たいしたモンじゃねーけど、クッキー焼いたんだ。この前、手料理作ってやるって約束しただろ?」

それで、と少し照れくさくなって頭をかくと、彼女はじっと紙袋を見下ろした。もしかして、気に入らなかったのかな?と恐々していると、バッと勢いよく顔を上げた彼女が、ぎゅっと紙袋を抱きしめて。

「あ、ありがと……、すごく、嬉しい……」

そう言って、綺麗に笑うから。
俺も嬉しくなって、そうか?と笑った。
すると彼女はあっと声を上げて。

「で、でもコレ、作るの大変じゃなかった……?」
「そうでもねーよ。他の奴にもやるつもりだったし」
「そっか、良かった……」

ありがと、と彼女はもう一度嬉しそうに笑った。そんな風に喜んで貰えることが、俺にとっては何よりも嬉しくて。

「じゃあ、また何か作ってきてやるよ」

そう言うと、彼女は少し驚いたような顔をした後、心配そうに顔をしかめて。

「無理、しないでね……」

お願いだよ、とどこか必死に、そう言った。



それから、彼女と会うときに、何か作ってやることが増えた。その度に嬉しそうに受け取りながらも俺を心配する彼女に、大丈夫だって、と俺は返した。

「燐、今日の授業はマラソンだって」

ある日。祓魔塾に行くと、しえみが笑顔で迎えた。俺はそうなんだ、と返そうとして、喉の痛みを覚えた。ごほ、と咳き込むと、しえみが心配そうな顔をした。

「燐、大丈夫?」
「ごほ、……んー?風邪っぽいようなそうでないような。ま、大丈夫だって、ごほ」
「でも、何か顔色悪いし、休んでおいたほうがいいよ」

そう言って、しえみが俺に向かって手を伸ばしたけれど、その前に、視界がぐらりと揺れて、俺がアレ?と意識する前に、視界が真っ暗になっていた。

「兄さん!」

遠くのほうで、雪男が俺を呼ぶ声がしたような気がしたけれど。




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