やさしいあくま 4

は、と気が付くと、心配そうなしえみの顔が見えた。俺と目が合うと、ホッとしたように笑う。

「俺……、どうなったんだ……?」
「倒れたんだよ、授業が始まる前に」

呆然と呟くと、聞き慣れた声が答えた。ゆっくりと起き上がると、部屋の入り口に雪男が居て、壁に寄りかかってこちらを見ていた。

「雪男?何でお前が……?」
「雪ちゃんがここまで運んでくれたんだよ」
「う、そうなのか?」
「そうだよ、兄さん。全く、急にひっくり返るから、すごくびっくりしたよ」
「わ、悪い……」

心配をかけまいと思っていたのに、と俺が俯いていると、雪男が小さくため息を付いた。そして、しえみを呼んで。

「兄さんのことは僕が見ておくから、しえみさんは授業に戻っても大丈夫ですよ」
「あ、そうだね。じゃあ、燐、お大事にね」
「おう、ごめんな」

ん、としえみは笑って、部屋を出て行った。パタン、とドアが閉じる音が響いて、沈黙が降りる。何か、気まずい……。

「……兄さん」
「な、何だよ」
「今日はどうしたの。急に倒れるなんて、今までこんなことなかったよね」
「そ、そうだけど……」
「何か心当たりはないの?変な悪魔に遭遇したとか……」
「や、最近は特に無かったけど……?」
「……」

なにやら難しい顔して考え込む雪男。昔から心配性で大袈裟な弟のことだ、きっと脳内でぐるぐると原因を考え込んでいるに違いない。だけど、多分、そんな大袈裟なことじゃないだろうと思う。俺はあまり心配をかけたくなくて、大丈夫だって!と殊更明るい声で言った。

「きっと軽い風邪だって!すぐ直るさ」
「……、馬鹿は風邪を引かないって言うけど、アレは嘘なんだね」
「どういう意味だソレ!」

俺が食いつくと、そのまんまの意味だよ、と雪男は冷静に眼鏡を押し上げた。
このホクロ眼鏡が……!



俺がそのことを彼女に話すと、彼女はくすくすと小さく笑いながら。

「弟さんは、貴方のことが心配なんだよ……」
「そりゃ、そうだろうけど。雪男は心配性すぎるんだよ。それに、ホクロ眼鏡だし」

軽く咳き込みながらそう言うと、彼女はひどく心配そうな顔をした。大丈夫、と言おうとすると、彼女がスッとこちらに手を伸ばして。
少し冷たい彼女の手が、頬に触れた。そして、彼女の顔が近づいてきて、そっと額同士が触れ合った。

「熱は、ない、みたいだけど……」
「……」

そう呟く彼女を見つめていると、ハッと我に返った彼女が慌てて体を離した。

「ご、ごめん、なさい……私、」
「や、いいよ。……ちょっと、昔のことを思い出しただけだから」

そう、昔。こうやって、俺は雪男の熱を測っていたな、と。
雪男は体が弱かったから、よく風邪をこじらせていた。その度に、小さな体を強張らせて咳き込む雪男に、つきっきりで看病をした。不安そうに俺を見上げる雪男に、だいじょうぶだよ、と手を握ってあげて。
……懐かしいな。
思い出しながら目を細めていると、彼女は少し切なそうに、目を伏せた。



寮に戻ろうと、重たい体を引きずって歩いていると、途中でメフィストと会った。俺の顔を見ておや?という顔をした男は、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
正直、この男の相手をする余裕のない俺は、その隣をすれ違おうとして、腕を掴まれた。

「な……!離せ!」
「随分と具合が悪そうですね、どうかしたのですか」
「べ、別に。ちょっと風邪を引いただけだ」

俺が掴まれた腕を振り払うと、男は大袈裟な動作で、いけませんね、と言う。
何が、と言おうとして咳き込む俺をあざ笑うように。

「君の具合が悪いのは、カノジョに会っているからですよ、奥村君」
「……え?」

何で、と言おうとした俺は更に咳き込んで、口に手を当てた。喉が焼けそうに痛んで、その熱を吐き出そうと咳き込むと、口の中に鉄の味が広がった。
ぎょっとして口に当てた手を見ると、真っ赤な鮮血がべっとりと付いていて。
おやおや、とメフィストが芝居がかったように驚く声を聞きながら、意識を飛ばした。



俺は、あの桜の木の下にいた。
少し離れて彼女が座っていて、真剣な顔つきでスケッチブックに向かっている。
サラサラと動く、指先。
すげーな、と感心していると、突然顔を上げた彼女と目が合って。

「貴方には、大切なヒトがいる……?」

何の脈絡も無く、そう聞いてきた。俺は驚いたけれど、素直に頷いた。いるよ、と。

「雪男もクロも、しえみも、塾の皆、俺の大切な奴だ。できれば、守ってやりたいって思うくらいに」
「そ、っか」

良かった、と彼女は笑う。

「大切なヒト、大事にしてあげてね」

そう言って、彼女は少し嬉しそうに、だけど寂しげに笑った。どこか儚げで、消えてしまいそうだ、とその時は思った。


消えるな……!と手を伸ばしたところで、ハッと我に返る。伸ばした手の先は、見慣れた天井。寮の、自分のベッドの上だと気づくと、すぐ傍に雪男がいることに気づいた。

「ゆき、お……?」
「気が付いた?兄さん」
「おれ、なんで……」
「フェレス卿がここまで運んでくださったんだよ」
「そう、か……」

あの時、俺は倒れたのか、とぼんやりと思っていると、いつも通りの顔をした雪男が、兄さん、と俺を呼ぶ。

「フェレス卿が言ってたよ、このままじゃ兄さんは消えて無くなるって」
「!」
「それって、死ぬってことだよね」
「な、なん……」

どうして、と言おうとして、メフィストから言われた言葉を思い出す。

『カノジョに会っているからですよ、奥村君』

すぐさま、否定する。何だって、彼女が、と。
だけどそんな俺を見透かしたように、雪男はダメだよ、と言う。

「だいたいの事情はフェレス卿から聞いたよ。多分、人間の姿をした悪魔の仕業だ。兄さんがサタンの息子だって知ってて近づいたのかは分からないけど、でも、これ以上、好きにさせるわけにはいかない」
「ち、ちがう……!あの子は……!」
「何が違うの、兄さん。現に、兄さんはこんなに弱っているじゃないか」

少し、苛立ったように雪男はそう吐き捨てる。
俺が答えに窮していると、雪男は少し息を吐いて。

「とにかく、兄さんはここで大人しくしていてね」

そう言って、俺に背を向ける雪男。祓魔師のコートを背負ったその背中を見て、あぁ、あの子を祓いに行くのか、と思う。
ダメだ、それはダメだ。ダメなんだよ、雪男。
俺は必死に手を伸ばして止めようとしたけれど、体に力が入らない。
雪男は、部屋の扉に手をかけたまま、立ち止まって。

「……、―――だ」

ぽつり、と何かを呟いたけれど、よく聞こえなくて。
俺は待て、と言おうとしたけれど、その前に、パタン、と閉じられた扉に遮られて、俺の言葉は届かなかった。

「雪男……ッ」

だめだ、と扉に手を伸ばしたまま、俺はぐっと唇を噛み締めた。
彼女の元に、行かないと。危ないって、知らせないと。
上手く働かない体に苛立ちながら、俺は何とかベッドに手をついて起き上がる。視界はふらついて、手や足も震えていたけれど、でも、行かなきゃと思った。

「いか、ないと……」

まるで呪詛のように呟きながら、俺は壁をつたって這うように、一歩一歩、歩いていた。
綺麗な桜が咲き乱れる、あの場所へ。





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